20180508

自分のことを決めつけられたときの対処法について

他人から自分のことをあれやこれやと決めつけられたとき、いつもどうしたらいいものか悩ましい。

たとえば、私はAと言ったはずなのに、誰かに、「いや、あなたはAではなくBと言った」と言い張られる場合。私は確かにAと言ったが、相手が聞き違い(または記憶違い)でBと言ったと思っている可能性と、私が言い間違えた可能性の両方が考えられるが、録音でもない限り確かめようがない。確かめたところで、もし相手の誤りだとわかれば、自分の誤りを素直に認められずにブチギレる人も多い。自分が間違えていることを知らされるのは、よほど余裕のある人間でなければ気持ちよく受け入れられないもの。生産的なことになるべく多くの時間を使うには、白黒つけないほうがいいときもある。

自分の記憶がはっきりしていて、相手の記憶が誤りである可能性が高い場合、できれば、自分の主張を通したい衝動に駆られる。しかし、相手は、自分のことではなく、他人の行動を頭ごなしにこうだと決めつけるような人間である。誤りをすんなり受け入れてくれる可能性は低い。誤りを渋々受け入れたところで、関係が悪化するだけ、ということがほとんどだ。

自分の主張を通さなければ、他に困る人が出てくるとか、広範囲に名誉が毀損されるとか、刑務所に入れられるとか、必要以上のお金を払わされるとか、減給されるとか、そういう大きな実害を被る場合には、頑張って主張を通さなければならないとは思うが、そうでない場合は、相手の気が済むなら、無理に自分の主張を通さなくてもいいと思うようになった。白黒つけないほうが、平和を保てる場合も多い。もちろん、どうしても言わなければならないときは、立ち向かう必要はある。

自分の主張を証明しようとすれば、延々と嫌な思いをする羽目になる。私は「Aと言った」と言っているのに、頭ごなしに「いや、お前はBと言ったんだ」と言い張るような人間は、相手の気持ちを配慮したり、自身の記憶違いや聞き違いの可能性を考えたり、そういう複雑な思考は、もしかしたらできないのかもしれない。延々と平行線の議論を続けて嫌な思いをするよりも、さっさとその話を終えて、逃げるのが得策。自分だけが正しいと言い張るような傲慢な人間とはそれ以降、距離を置く。

ただ、単純に「ああそうでしたか、私はAではなく、Bと言ったんですね」と認めてしまうのは、事実とは反するのに嘘を言うことになるので、それはしたくない。相手は満足するだろうが、嘘は付きたくない。相手の主張に対して、「そういう可能性も完全には否定できない」ということだけを認める返事をすれば、相手はよくわからないような顔をするが、自分の主張が完全に否定はされないので、それなりに満足する。自分の主張が100%認められたと勘違いしてますますふんぞり返るような人には、反撃してやりたくもなるが、ぐっとこらえる。報復は報復を生むだけで、傷も深まるだけだから、かすり傷のうちに、さっさと逃げる。一緒に何かをやっていけるような人間ではないと、早い段階でわかってよかったと思えば、少しは気持ちが楽になる。

立ち向かって勝たなければという考えもわずかによぎる。でも、結局は泥沼の戦いになって疲弊して、勝ったとしても、勝った爽快感より、積もり積もった嫌な出来事の苦々しさのほうが強く残ることがほとんどだ。勝ったところで得られるものはそんなに大きくもない。さっさと距離を置けば、より多くの時間を、もっと生産的なことに使うことができる。

思考力と理解力があまりない人が私の正しさを認めていなくても、自分だけでも自分の正しさを認めていればそれでいいのかもしれない。相手にいくらバカだの、カスだの、クズだの言われても、相手が私をそう認識しているだけであって、世界中の全員が私をそう認識しているわけではない。たとえ、世界中の他人が私をそう認識したとしても、他人の認識が誤っていると思うならそれは受け入れずに、私だけは私の真価を理解する人間でいようと思う。

若いころは、間違っていることは絶対に許せなくて、確実に立ち向かっていっていたけど、もう少し年を重ねて、正しさ以外を優先したほうが生産的なこともあるとわかってきた。丸くなりたくはないけれど、世の中もうまく渡っていかなければ、残された時間を重要なことに有効に活用できないのかもしれないという焦りも感じる。Life is very short. There's no time for fussing and fighting my friends(ビートルズのWe Can Work It Out [on Youtube])という一節を思い出した。