20170413

プライドなんか捨て去ってしまえばいい

プライドは死を招く大罪。

ふと、この言葉を思い起こすことがある。ロシアのタイガの中で、人間本来の力を失うことなく自然とともに生きる女性について書かれた本『アナスタシア』(*)に出てきた一節だ。

誤りや過ちを素直に認められないというのは、どうしてなんだろう?と時折、考えさせられる。事実はどう考えてもそうとしかとれないのに、どうしても認めようとしなかったり、都合のよいように解釈して話をそらせたり、逆上したり。単純に、「あ、その点はいけなかった、ごめんね」と認めて、次からはどうするのかを考えたらいいだけのことなのに、なんで認められないんだろう、と不思議に思う。

*『アナスタシア』のことは、実話なわけがないという人もいる。こんなことを信じているのかと、変人扱いされるかもしれないが、私は実話だと(今のところ)思っている。あまりに人間離れした話で作り話だと思う人がいるのも理解できる。フィクションとして読んだとしても、参考になる部分は多い。

相方と話していて、それは、プライドのせいで歪んだレンズを通してしか自分を見つめることも、事実を見ることもできなくなってしまうからではないか、という話になった。

自分の人間性に確固とした自信がない。自己肯定感が低い。そのため、スキルや能力、経験、所属、経歴、そうしたものに自信の根源を求めていたり、「本当は自分はもっとできるはずだ」というポテンシャルに妙な自信があり、「自分がこんなことをするはずがない」とありのままを認められないような人間は、そうした自信の根拠を揺るがすような事実が出てきた場合に、素直に認めることができない。それを認めることで自分を保つことができなくなってしまうから、どうしても認められないのだ。

例を挙げてみたいと思う。

たとえば、自分の英語力というスキルにプライドがある人がいたとして、その人が意味の取り違えをして訳していたとする。辞書の定義を基に、「これはこういう意味なので、こういう解釈になるのではないですか?」と指摘されても、素直に「あ、間違ってました、ありがとう」とはならず、自分の解釈が合っているという根拠を必死で探そうとする。それでも出てこなければ、指摘した相手の間違いを目を皿のようにして探して、攻撃する。そうすることで自分のプライドの根拠となっている、英語力というスキルの高さを守ろうとする。

「本当は自分はすごく優秀なビジネスパーソンなはずだ」というポテンシャルにプライドを持っている人がいたとして、その人が下に見ている立場の人間から、ミスを指摘されたとする。訂正すれば大事に至らないミスであったとしても、それは自分のミスではないと言い張ったり、責任の所在をうやむやにしたり、ごまかしたりして、自分のミスをなかったことにしようと必死になる。それを認めてしまえば、「自分はすごく優秀なビジネスパーソンなはずだ」という自信がなし崩しになってしまうと恐れるからだ。

認められないから、事実を捻じ曲げる。時間が経てば経つほど、自分に都合のよい事実だけが肥大化し、都合の悪い事実は消し去られていく。

スキルや能力、経験や経歴などを、武器として振りかざせるくらいの高みに持っていければ、もしかしたら、次の段階というか、それには自信が持てたから、次は人間性に、というふうに進んでいくのかもしれない。でも、まだそういう人には会ったことがない。

一つには、そのくらいの高みに持っていくまでにはかなりの努力を要するが、その努力を継続するには、自己肯定感が必要だからではないかと思う。自己肯定感がない場合、焦りに転じて、一つの技術などを完成するまえに次々移ってしまい、どれもモノになることがない場合が多いのではないだろうか。

もう一つ考えられることは、武器として振りかざせるくらいの高みに持っていけば自信がもてるはずだと思ってがんばってみても、実際にその目標地点に立てたときに、上には上がいて、永遠にたどりつくことはできないと、そこまで努力できた人はほとんどが気がつくのではないかと思う。がんばって登ってきたけれど、そこに、自分が思うような自信は得られなかったという絶望を味わい、ただ、その努力を無駄にはしたくないから、武器として振り回し続けるのかもしれない。技術などには自信がつかないから、人間性に目が向くということはなく、スキルや能力、経験や経歴などにプライドを持ち続ける。

自信の根拠が危うくなり、自分を保つことが難しくなるというリスクをおかしてまで、誤りや過ちを認めてもらいたいなどとは思わないが、そういう人間とはなるべく距離を置きたい。やむを得ず、事実を認めてもらう必要がある場合に(そうしないと私のせいにされてしまうとか)、事実を理解してもらうのに時間と労力がかかりすぎたり、逆上されたりすることは避けたいからだ。相手にとって、どうしても認めざるを得ないが、それを認めてしまうと自分を保つことができないことであれば、追い詰められた相手は何をするかわからない。自分の身の安全を危険にさらしてまで、相手の人間としての成長に協力することは、キリストやプラトンならしたかもしれないが、私にはできない。なるべく距離を置きたいと思う。

プライドというのは、空虚な自信だと思う。自分の実質ではなく、外部の飾り物や空想の自分を誇っている。そして、他者の目線を基準にしたものであり、常に相対的なものだ。確固たる自信にはなり得ない。確固たる自信を培うには、あるがままの自分を観るところからスタートする以外に方法はないのではないだろうか。

私だって自分を直視すれば、しょうもない人間だし、苦手なことも多いし、まだまだだなぁと思うところはたくさんある。だから間違うし、不完全だし、失敗したりもするし、落ち込んだりもするし、ケンカをしたりもする。でも、それぞれについて、それをどう扱っていくのか、それらとどう付き合っていくのかを考えるだけのことで、認めたら立つ瀬がない、などということはない。そういう人間なんだから、それはそれとして認めて、得意なことをすればいいんでないか、努力することはできる、工夫を考えることはできるなどと、どうしていくのかを考えるだけのことだ。自分はよくなっていけるという自己肯定感はあるから、自分のまだ至らない部分を見ても、自分を保つことができないなんてことはない。自分がいかにちっぽけな人間かということはよくわかっているし、ちっぽけだけど、できることはあるということもわかっている。

「プライドは死を招く大罪」――プライドが死を招くような病気を招くかどうかはわからないが、プライドを支えに生きていたって、楽しくない。常に恐れがつきまとう。失うことを常に恐れて生きていくなんて、生き地獄というか、この世を楽しむことができず、死んでいるのも同然ではないだろうか。

プライドなんていうのは結局、他者の目線を気にすることから生まれる。他人の評価など、人によってまちまちで、変動しまくるものに、自信の根拠を持とうとしても、いつ崩れ去るかもわからない。そんなものはさっさと捨ててしまえば、自分らしく生きられる。他者を貶める必要も、素直に謝れずに信頼や友愛を失う必要もない。自分がどうありたいのか、どう生きていきたいのか、どういう人間を目指すのか、それを軸に生きていけば、プライドなんかなくても生きていくことができる。恐れではなく、うれしいこと、おもしろいことがどんどん増えていく。そのほうが楽しいのではないだろうか。

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