20170316

自信がなくなってきたら

いっときは毎日なにかしら書きたくなって、ブログを毎日更新していたが、最近は一週間に一本でもなかなか書くことが浮かばない。

一年ほど前から相方がブログを真剣に書くようになり、ネタがかぶらないように気をつけているというのもある。共通の知り合いも多いので、両方とも同じようなことを書いていたら飽きるだろうし…と思ったりもして。でも、相方のブログを読むと、私が言いたいことを私よりも上手に書いていて、読んだだけですっきりしてしまうようになったから、というのも大きい。

他者の作品や活動を見たり、聞いたりばかりしていると、だんだん、自分の表現に自信がなくなっていくことがある。もうこんなに上手にやってくれている人がいた、もうこれはお任せしよう、と思うことが、あれもこれもと増えていき、自分にやれることは何も残されていないんじゃないか、という氣さえしてくる。

これは危険な兆候で、そんなときは他者の作品に触れることを意識的に遮断するようにしたほうがいいのかもしれない。何も読まない、聴かない、そうなると暇になってうずうずしてきて、なにかしらつくりたくなってくる。

その氣持ちに従って、なにかしら手を動かしてみると小さなものでもなにかしらできる。何気なくつくったものが氣に入って愉しい氣分になってきたり、人に喜ばれたり、そういうことも増えてくる。そうすると自分の表現が愉しくなってきて、自分の表現>外部からのインプットというバランスを取り戻してくる。

自分の表現が主体になると、外部からのインプットも自分の表現に生かすためのものになってきて、有意義なインプットになりやすい。つまづきを感じていたところに新しい視点を与えてくれるものの見方や情報に出会ったり、心を動かされたインプットが蓄積して融合し、何か新しいものが生まれたり。

ただ漫然と他者のつくったものを隅から隅まで追っていても、(私の場合は)あまり記憶に残らないが、自分が何か表現をしていると何も表現していない場合よりも発見が深く多くなるのもおもしろい。インプット過多になってくると、感度が下がって真価がわからなくなってしまう恐れも感じる。

自分の表現といっても、いわゆる芸術作品のような大きなものを指しているのではなくて、ノートに書いた思考の整理だったり、裏紙に描いた落書きだったり、いろいろ考え合わせた上での日々の行動の選択だったり、もっと身近なものでいいと思っている。そういうささやかなものが、続けているうちにいわゆる芸術作品のように評価されるときがくることもある。…というか、芸術作品をつくろうと思ってつくったものというのは、有名になりたいとか、売れるもんをつくろうとか、のし上がってやるとか、やっぱり不純な氣持ちが多少なりとも入り混じっているから、あんまり好きになれない。一瞬で消えてしまう何気ない日常の一言だろうと、世界中で歌い継がれる名曲だろうと、自分の心のなかから湧き上がってくるもの、伝えたい氣持ちや祈り、抑えられない何かを純粋に表現したものが、藝術なんだと思う。

自分でなにかをつくっていると、人のものばかり見ているときにはないなんとも言えない高揚感がある。人のものを見ているほうが楽で、自分でなにかをつくるときには苦しいこともあるけど、できあがったときのうれしさとか達成感とか、そういう心が躍るような感覚は人のものを見るだけのときとは比べ物にならない。

どんな人だって何かしら感じているし、考えているし、伝えたい想いを持っているんじゃないかと思う。いきなり公表したりしなくても、自分で何かを主体的につくっていくことは小さな紙切れに書き出すことからでも、頭の中で想像をめぐらすだけでも、始めることができる。また自信がなくなってきたら、人のものを見る時間を減らすように意識して、自分で何かを表現する時間を意識的に増やすように心がけたい。

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