20161009

しゃべりは諦める

久しぶりにいろんな人たちと話をする機会があって、自分のしゃべりの下手さ加減に辟易とした。話を振られても、相手の関心が続く形で話すことが難しく、複数の人がいる場合は特に、「これはこの人は嫌いだろうなぁ」とかいろいろ考えすぎて上手に話せず(気をつけないと簡単に地雷を踏んでしまうので…)、自分のしゃべり下手がほとほと嫌になった。かたや、自分の話を上手にして、自分の空気というかペースをつくっていくのが上手な人もいて、社交が楽しそうだなぁとうらやましかった。

短いトークで、相手の関心をひきつけながら、まじめな話をするというのは本当に難しい。そもそも、まじめな話は求められていないことが多い。でも、ゴシップには興味がないし、テレビも見ないし、私から出てくる話はわりとまとまったまじめな話になりやすい。アメリカの選挙のサウンドバイト(キャッチーな短い言葉で関心を集める。日本では小泉純一郎元首相が効果的に活用)ではないけれど、短い言葉で相手の関心をひきつけながらでないと、たいていの人にはほとんど話を聞いてもらえない。

私は、極端にデフォルメして話したり、衝撃的な結論だけを話したりするのが嫌いなので、長い話になりがちだ。自分が判断材料とした事実や、他者の見解を説明したうえで、私は今のところはこういう意見を持っている、というような話になると、背景説明だけでもう関心は離れ、全然違う話題に変えられてしまうこともある。

今回、少しわかったことだが、多くの人は、真剣に意見交換をしたいわけではなくて、その時間を楽しく過ごすために、音のやりとりや単なる言葉のキャッチボールで時間を埋めることが会話の目的になっている場合がよくある。だから、相手はほんの少し前に言ったことを覚えていなかったりもするし、質問されたことについて私が真剣に答えようとしても、真剣な回答は求めていなかったりもする。

そういう時間を潰すだけの会話は苦手で、しゃべりは私、全然ダメだと自信をなくしたのだけど、数日考えてみて、しゃべりはあきらたらええやん、と思ったらすっきりした。

なんでも上手にやろうとするから、落ち込んだり、自信をなくしたりするんだけど、しゃべりが得意な人は、論点からずれずに考え続けるのが苦手だったり、文章を書くのが苦手だったり、本を読んで必要な情報を得ることができなかったりするし、みんなそれぞれ、得意なこと、苦手なことが違うんだから、私は私の得意なことで力を発揮して、苦手なことをしないといけないときは、とりあえずやり過ごしておいたらいいんじゃないのと思ったら、ちょっと気分が楽になった。

大勢と話す機会なんて恐怖だ、もう二度とゴメンだと思うくらいだったけど、しゃべりは諦めることにしたら、人付き合いもまぁ、どうにかまたできるかもなぁと思えるようになった。しゃべりは、もう得意な人におまかせして、聞かれたら自分なりに喋って、興味を持ってもらえなくても、まあ、それはそれでいいやと思えばいんじゃないの?と。

相方がわりと毒舌なことを言って励ましてくれた(というか、あまりにも落ち込んでいるからどうにか励まそうと毒舌になったんだと思うが)。「tom-tomに訊いておきながら、説明しだすともう聞いていない、あるいは、聞いても理解できない人間というのは、まだ聞くに値しない人間だということ、理解できるレベルに達していないということだから、まともに話してやる必要なんかない」というようなことを言っていて、うーん、それも一理あるなぁと。

たしかに、私はいつのまにか世間とはかけ離れた暮らしをするようになり、考え方も世間の固定観念とは異なってきていて、相手が理解できるレベルでできる話はかなり少ないし、噛み砕いて話そうと思うと、どうしても長くなって相手は飽きてしまうし、もうどうしたらいいんだ?と思ったけど、そもそも、時間を埋めるためだけに話を振ってくる相手というのは、別に本当に私の話が聞きたいわけではない。そういう相手に真剣にわかりやすく話すだけ無駄というものだろう。適当に音のやりとりを楽しめる程度の言葉を返す練習もしておいたほうがよいのかもしれない。

私はしゃべりは下手で、しゃべりで人に影響を与える力はないに等しいが、私に会った人はたいてい、肩の力が抜けるというか、自然体で柔らかい表情になって帰っていくし、普段粗暴な人たちといる人は下劣な面を抑えようと努力したりしてくれているようで、しゃべり以外の影響力というのもあるよう。たぶんそっちのほうが得意で、そっちの努力をしたほうが、しゃべりを上達させるよりも効果が高いかもしれない。そういう面に作用するのはたぶん私の出している空気で、そういう空気というのは、普段の行いや思考の蓄積によって作られているのだろうから、毎日の積み重ねを大切にしたいと思った。