20161014

blogの更新を2016年末までお休みします

いつもご覧いただいているみなさまへ、

ご訪問いただき、ありがとうございます。
先日お知らせいたしました通り、URLを変更いたしまして
現在移行作業を行なっております。

もともと、このブログは友人・知人向けに書いていたのですが、
ありがたいことにアクセス数が伸びてきたため(友だちが増えたわけではなく・・)、
こちらを匿名のブログとして(小心者でして…)、
表向きの近況や最近の仕事などを書くブログを新たに作り、
内容を精査して、どちらのブログに掲載するかを考えたり、
加筆修正したりしています。

リンクのURLを全部新しいものに直す必要もあり、
思った以上に作業が多くて、年末までは移行作業に専念したいと思います。
また、こちらのブログにどんなものを書いていくのかについても、
この機会に落ち着いて考えてみたいと思っています。

もし楽しみにしてくださっている方がいたら、申し訳ありません。
少し成長して戻ってこられるように努力したいと思います。
いつもありがとうございます。

20161009

しゃべりは諦める

久しぶりにいろんな人たちと話をする機会があって、自分のしゃべりの下手さ加減に辟易とした。話を振られても、相手の関心が続く形で話すことが難しく、複数の人がいる場合は特に、「これはこの人は嫌いだろうなぁ」とかいろいろ考えすぎて上手に話せず(気をつけないと簡単に地雷を踏んでしまうので…)、自分のしゃべり下手がほとほと嫌になった。かたや、自分の話を上手にして、自分の空気というかペースをつくっていくのが上手な人もいて、社交が楽しそうだなぁとうらやましかった。

20161008

わがままを許すことが優しさではない

断るに断れず、相手のわがまま放題を許したことについて、優しいとほめられ、感謝されたのだが、これが本当の優しさなのだろうかと苦々しい気持ちになった。

自分の時間や場所、費用、労力などといったリソースを投じて、相手のわがままを通すことを助けたことに、「あなたって本当に優しいのね、ありがとう」というようなことを言われても、ちっともうれしくなかった。

20161007

温厚に見えても何でも許せるわけではない

他者から「気づく力」が素晴らしいとほめてもらったことがあるが、まわりの人に気を使いすぎるほうだと自分でも思う。センサーが敏感でいろいろなことに気がつき、先々まで読めてしまったり、想定をぱっと幾通りか立ててしまったりするので、人付き合いは疲れてしまう。私といると相手は快適らしく、私も顔に疲れがでないので、人好きだと思われがちなのだが、寝込むほど疲れることもあり、回復に数週間かかるときもある。

接客や電話応対が上手だと言われたこともある。相手が快適なように気配りはできて客は快適だろうが、自分は気疲れしてしまい、いくらお金をもらえても毎日そんなことをしていたら早死にしそうだ。

外向きの私は、人あたりがよく、温和で穏やかで優しく見えるらしい。何でも許してくれると思われがちなようで、かなり失礼なことを言われたり、されたりすることも多い。

恐れている相手になら丁寧に説明したり、事前にこまめに連絡したりするであろうことも、私なら許してくれると思うのか、何も言わずに当然のように協力を求められたり、連絡が直前も直前だったりする。恐れている相手になら質問しないようなことも、私なら許してくれると思うのか、ズケズケと聞かれたり…。恐れている相手の話なら、背筋を伸ばして聞くであろうが、私なら許してくれると思うのか、あくびをして、全く関係のない自分の話を延々とされたり…。恐れている相手にならしおらしくしているのだろうが、私なら許してくれると思うのか、偉そうに超上から目線で話されたり、命令されたり…。

相方と私の両方への頼み事でも、私のほうが頼みやすいらしく、私にだけ連絡がきて、ぶしつけな頼み方をされることもある。

こういうとき、顔で笑って心で泣いての言葉通り、にこにこしてやり過ごすのだが、腹のなかは煮えくり返っている。

幼い頃から「一を聞いて十を知れ」と父に鍛えられてきたため、相手の言葉や態度の根底にある心情や魂胆、考え方も敏感に察知できてしまう。怒るべきポイントを察知してしまうセンサーが発達していて、もう少し鈍感だったら、人付き合いも楽だったのかもしれない。

穏やかに笑っていたって、鈍感で何にも気がつかずにニコニコしているわけではない。温厚な人ほど怒ると怖いというのは、そういうことだと思う。何でもわかって気づいている上で、腹が立ってもぐっと堪えているにもかかわらず、それをいいことにどんどん無礼なことをされるから、たまりかねて爆発する。私も、物申すときは最後、縁の切れ目になることがほとんどだ。失礼なことをしたほうはすっかり忘れているかもしれないが、されたほうは全て覚えている。

何でも許してくれると思ったら大間違い。この人なら許してくれるだろうなんていうのは甘い考えで、どんなに優しそうに見える相手だって、無礼な扱いを受けたら怒るもの。賢さや思いやりでぐっと堪えているだけのことだ。どんな相手にも礼節をわきまえて、丁寧に敬意をもって誠実な対応をすることが、自分にとっても相手にとってもいいことだと思う。

…とは言え、こどもが悪さをしたって、立派な大人は「こどもなのだから」と怒らずに諭すことができるのと同じように、相手が今どの成長レベルにあるのかを見極めて、これ以上は期待できないとか、これでこの人の精一杯なのだとか、そういうことを理解できるようになって、受け流す、許すということも、私は学ばないといけないと思っている。ぐっとこらえて腹にためるのではなく。そうしないと身が持たない。

敏感さや繊細さがなければよかったのか、と思うこともあるが、そうではなく、むしろ他者が心地よくいられるにはどうあるべきかや、自分が立派な人間になるにはどうあるべきかを学ぶ上で貴重な財産だと思う。

20161006

片付けについて

9月は暇さえあれば片付けに精を出していて、片付けの進んだ一ヶ月だった。まだまだ、片付けるものがいっぱいだが…。

片付けというのは、やってみると奥が深い。人生で何をしたいか、優先して何をするのか、それらの活動をどう循環させていくのか、ということを考えることにもつながっている。それに、生活を彩り、快適にしてくれるモノたちの居心地がよさそうになり、活躍の出番も増えてうれしそうだ。

これまで、収納は少ないスペースに物をどれだけたくさん詰め込めるかだと思っていたが、これは大きな誤解だったと気がついた。

よくおしゃれな雑誌などに載っているような、引き出しに木のスプーンが取り出しやすい間隔で並んでいる写真なんかを見ると、「えー、場所がもったいない!」などと思っていたものだが、使いやすく、取り出しやすく、戻しやすくするというのが大事で、そのためには空間的な余裕が必要だということを学んだ。

それから、入るところがないものは、まだ始めるタイミングではないということだとも思った。やろうやろうと思って、本だけ買ってあるものがいくつもある。金継ぎの本もその一つ。

引っ越しのときにお気に入りの食器を何枚も割ってしまい、金継ぎが始めたくてしかたないのだが、片付けをしてみると、道具を置いておくスペースがまだないということが判明。

道具を置くスペースがない物事というのは、たいてい、時間的な余裕もなく、買ってきてもずっとやらないまま放置することになりがちだ。

家の中を見回してみると、片付いていないものがいっぱいある。

紙小物をつくろうと取ってある和紙の切れ端、消しゴムはんこ用の道具の買い置き、編み物用に買った草木染めの毛糸、リメイク用に買った古い着物、種取りがまだの豆やら麦やらがあちこちに・・・。

草木染めも本を買ってあり、布も無漂白の布を東京時代に買ったのだが、東京の狭い家ではそもそも無理で、香川にきてからは、ほかにやることがありすぎて、まだそこまで手が回らない。

本当にやりたいものしか残ってなかったのが、昔よりは成長したかなと思った。昔だったら、この検定は取っておいたほうがいいかも、みたいにテキストを買い込んで、いつか勉強するはずと積んであったり、「これくらい取っておかなければヤバイのでは・・・」みたいな恐怖に基づいて残してあった検定書もある。

今はやりたいものが収まる場所を待っているという状態。やりたいことを気持ちよくやれる余裕を生むために、片付けをしながら、空間的にも時間的にも整理を進めていけたらと思う。そう考えると、片付けが上手になると、楽しめることが増えるということだから、ますます片付けが好きになれそうだ。

あれだけ苦手だった片付け。こんまりさん(近藤麻理恵さん)の『人生がときめく片付けの魔法』を読んでも、3日も続かなかった。しかし、今回はどうやら、新月の願い事が効いたよう。

新月の願い事は、新月から8時間以内(48時間以内でもまだ効力は強いらしい)に、「私は」を主語にして、願い事を完了形(~しました)や進行形(~しています)で肯定文で10個書くと願い事が叶いやすいというもの。半信半疑で始めたものの、これまで、旅行が当たったり、ぴったりの家が見つかったりと、結構叶うので続けている。

9月の乙女座の新月のときに、「私は片付けが上手になりました」と書いてみたところ、あれだけ面倒でやりたくなかった片付けに燃えるようになり、やる気が結構続いている。乙女座は几帳面な星座なのもあって、片付けができるようになるという願い事と相性がよかったのかも。

片付けが苦手な方、乙女座の新月のときに、アファメーションを書いてみるともしかしたら効くかもしれません。

20161005

善行について

ボランティアに行きだした人が、急に尊大な態度を取るようになったり…。慈善活動の寄付集めを手伝うようになった人が、「そんなものの頼み方なくない?」って感じの頼み方で、お金を要求してきたり…。

「善行」をしているからと、礼儀や思いやりを免れると勘違いしているのか、ものの頼み方や提案の仕方がめちゃくちゃだったり、道理をわきまえず、筋を通さないやり方を押し通す人も結構いる。まわりの人に不快感や迷惑をかけるような、そんな慈善活動なんかむしろ、やらないほうがいいんじゃないの?って思ってしまう。

いいことをしている人はいい人だと思っていたのだが、実はそんなこともないと、最近気づいてしまった。

なんで、そうなるんだろう?と考えながら、いろいろな人たちを観察していて、ある共通点があるのではないかと思い至った。「善行」を施す場以外では無礼な態度を取る人間は、その「善行」によってもたらされるよい結果が、実は自分の望みにはなっていない。

そういう人たちが善行をしたいのは、善行をすることが、こんな立派なことをしている、という経歴を身につけることになるから。言い換えれば、善行をしたという経歴が自分に自信をつけるためのアイテムとして捉えてられている。そのため、こういう立派なことをしている自分は、していない人たちよりも偉いという態度になる。そのアイテム数を増やすことが目的化してしまっている。アイテム数を増やす、経験値を増やすことによって、他者からの評価を高めることが目的であり、だれかや何かを助けること、自然環境を回復させることなどではない。…ない、とまでは行かないのかもしれないが、動機としては二番目以下の要素だろう。

自然を壊さず、なるべく自然が喜ぶような暮らしを心がける、また、消費や預金で戦争に加担せず、なるべく作る人も売る人も喜ぶような選択を心がける、そういう暮らし方をひけらかす人も多いが、黙々と地道にそういう日々を創っている人たちもいる。

黙々と、誰に自慢するでもなく、地道にそういう暮らしを創っている人たちを何人か知っている。そういう人たちは、何か有名な団体に所属して活動しているとか、何人の人を助けたとか、そういう箔のようなものは何もつかないが、醸し出す雰囲気というか、威厳のようなものが揺るぎない感じがする。そして、そういう暮らしを創ること自体が喜びになっていて、だれかに認められなくても、幸せそうだし、そういう暮らしに協力的な人たちに感謝をし、そうでない人たちにも阻害しないでくれることに感謝して、丁寧に対応をしている人しか見たことがない。

善行をしている人たちも、本当に誰かや何かを助けることが自分の目的になっている人は、ひけらかしもしなければ、自慢もせず、ただただ「助ける」という目的に集中していて、協力を広げるためにも誰に対しても礼節をわきまえている。まだ問題に気がついていない人たちや、全く協力しない人たちに対しても、見下すような素振りは全くない。そういう人は本当に立派だと思うし、数人でもそういう人を知ることができたことは本当に幸運だと思う。

善行によってもたらされる良い結果そのものが自分の喜びでない場合、自分の自信を高めたり、他者からの評価を高めたりするために、善行をした経験数を増やすことが目的化してしまう。そういう善行というのは、むしろ、その人の人間性に害を与えるのではないだろうか。善行をする中で、本当に立派な人間に出会い、自分の浅はかさに気づくきっかけになることもあるのかもしれないが。

) 関連記事

20161004

共感は力になる

他人と意見や感じ方が違うことで怒る人がいます。私はちょっと変わり者なので、「ね、あんたもそう思わん?」と言われて、「うーん、そうかなぁ」とか濁したり、あんまりしつこいときなどは「いや、そうは思わんなぁ~」と答えることがあるのですが、たいがい「なんでそう思わんの!」と言われます。聞かれたままに根拠を説明するとますます憤慨されるのが常です。

何もそこまで怒らなくても…と思うことも多い。なんで、自分と他人の意見が違ったらいけないのだろう?

意見が違う場合でも、同じように考えなくたって、それぞれ納得できることをしたらそれでいいんではないかと思うのです。一緒に旅行へ行く人と行きたい目的地が違ったり、食事をする相手と行きたいお店が違ったりしたら、それは困るかもしれないけど、お互いに譲り合いながら交代交代で行きたいところに行くとか、そもそも一緒に行かないとか、そういうこともできるだろうし。

「あんたもそう思うでしょ?」に「うん」と是認しないと絶対に嫌という人も結構いる。相手が好きなものに対して、不必要に自分の批評を言うことはありませんが、言う必要がある場合に(言わないと買わないといけなくなるとか)、自分の感じ方や考えを伝えると、相手が好きなものを私が好きでないとわかると怒られたり、憤慨されたりすることもあります。相手が好きなものを知らなかったら、「なんで知らんの!」と怒られたり…。

全く意見が同じで得することってなんかあるんだろうか?とぐるぐる考えていて、他人にも同じように考えさせたくなる理由というのは、きっと承認欲求もあるけど、共感が力になるから、というのもあるのでは?と思いました。

元気玉みたいに共感の力が集まれば、実現の可能性が高まったり、すでにあるものであれば勢力が大きくなったりもします。共感が持つそういう力を本能的に察知しているから、共感が得られない場合に激怒したり、無理やりに相手に同じように感じさせよう、考えさせようとしたりするのではないかと思いました。

そんなやり方をしても、うわべだけの同意は得られる可能性はあるものの、本音のところでは反発が強まるばかりです。相手と自分の考え方や感じ方が違うということを大前提として受け入れた上で、相手の意見や感じ方を尊重し、相手が自分と同じように感じてくれない・考えてくれないことを悲しんだり怒ったりするのではなくて、自分が楽しむことに集中する、自分の考えをわかりやすく説明する、そういうことを黙々と続けることによって、まわりからの理解も少しずつ得られていくものだと思います。共感に力があることは確かにそうだと思いますが、それを得ていく方法はよく考える必要があるのではないでしょうか。

)関連記事

20161003

発酵する家

急に数日間家を空けることになり、窓を閉め切って5、6日ほど出かけていました。湿気の混みやすい家なのですが、帰ってみると、いろんな自然素材がかびだらけ。アルコールで消毒したり、煮沸消毒できるものは煮沸して‥。

木の机までカビていて、もう嫌だ~という感じだったのですが、ふと見てみると、どんぐりが芽を生やしていました。


じゃがいもも芽を出しているし、さつまいももいつのまにやら芽が出ています。しょうがも野菜カゴの中でにょきにょきを芽を生やしていました。

出かける前に作ってあった紫蘇ジュースはブクブク発酵しています。3-40分ほど煮詰めて火を通してあったものです。あれだけ沸騰させたのに菌が棲みついて発酵するとは…。飲んでみるとお腹の調子が良くなって、いい菌だったみたいです。我が家にはいろんな発酵する菌が棲んでいるようで、腐敗に向かうことはほぼありません。

紅茶キノコ(コンブチャ)のことを『ヤナの森の生活』で知って、育ててみたいと思ったこともあり、どうやって培養を始められるのか調べていたことがありました。海外からモトを取り寄せないといけなかったり、高いお金を払って株分け会に参加したりすれば始められるようです。うーん、ちょっとハードルが高いなぁなんて思っていたのですが、そんなことをしなくても菌さんは勝手に家に棲みついてくれていました(紅茶キノコの菌とは違うと思いますが)。求めなくても気づけばそばにいてくれたんですねぇ。

カビが生えるのは困りものですが、発酵したり、植物が成長したりというのはいい環境なのかなぁと思いました。古民家の一長一短ですね。調湿効果のある漆喰塗りをもう少し進めたら、少し過ごしやすくなるのかなぁとも思うのですが。

20161002

世間一般の固定観念通りの考えなら、人付き合いは楽かもしれないが

たまに他者と話すと、さまざまな発見がある。

世間一般の固定観念に考えが符合している人はさぞかし生きるのが楽だろうなぁと思うことがあった。結婚や出産の話題などのゴシップが好きで、男は男らしく、女は女らしくといったジェンダー観は世間一般の固定観念の通り。地位や名声などのラベリングによって他者を評価する。そういう人たちは友人も多く、SNSも楽しんでいるし、人の集まるところにでかけていくのも楽しそうだ。かたや、私は個人の自由を阻害する固定観念が大嫌いで、大勢といても孤独を感じ、たいていの人間と過ごすのは苦しい。

ゴシップやジェンダー差別、地位や名声などによる評価など、そういう固定観念に染まった話を聞いていると、私は次々に疑問が浮かび、その疑問を投げかけたい気持ちを抑えるのだが、相手は私が不快に思っていることに全く気がついていない。他者がどう感じているか、どう考えているかを察知するセンサーが鈍い人のほうが世の中には多く、そういう人たちも生きるのが楽そうに見える。私はただひたすら我慢して聞き、相手は気持ちよく滔々と話し続ける。

反論せずに我慢して聞くのは、相手の反応が先々までだいたい予想がつくからだ。反論したところで理解されない可能性が高い。理解されずに激怒されて終わるだけだ。相手が固定観念に気がつくまでには恐らく、長い時間がかかる。死ぬまで知らずに過ごすかもしれない。そのほうがその人にとってはもしかすると幸せなのかもしれない。それに、私が何か言ったところで、気づくきっかけを与えられるどころか、むしろ余計に凝り固まる可能性のほうが高い。だから私は黙ってただひたすらやり過ごす(わかりそうな相手で、相手のためになるかもしれない場合には少し意見を言ったりもするのだが)。

こうやってやり過ごすのはしんどいのだが、そういう人たちと自分をもう少し広い視野で見てみると、自分のほうが自由度が高く、幸せな気分でいることが多いということに気がつく。

そういう人たちは、結婚や出産、地位や名声のある仕事など、世間的な幸せにとらわれている。それを手にしている場合でもそんなに幸せそうには見えない。手にしていない場合は、手にしなければ不幸だという気持ちでいる。餓鬼のように渇望して苦しんでいる人もいる。

自分らしさや自分のしたいことという点でも、自分は男だからといわゆる女らしいと言われている性質を押さえ込んだり、自分は女だからといわゆる男の仕事とされているものには最初からできないと決めつけていたり(逆も然り)していて、非常にもったいないと思う。他者から得る気づきも、世間一般の固定観念という色眼鏡を通して見ているために、まっさらな目で見ているよりも大幅に少なく、しかも歪んでいることが多い。

世間一般と一緒に過ごす時間という短いタイムスパンでは、そういう人たちのほうが楽かもしれないが、人生全体の時間で幸せな割合を比べてみると、恐らく、固定観念を捨て去ったほうが幸せな時間が多くなると思う。自分はこれからも、孤独を恐れず、自分の自由意志を大事に世の中を見て学び、自分の人生を楽しんでいきたいと思った。

) 関連記事



20161001

「他力」ってなんだ?

先日、『愛国と信仰の構造』(中島岳志さん✕島薗進さんの対談)を読んで、考えたことなどを書きました。
  1. 愛国と信仰の構造を読んで 〈1〉
  2. 愛国と信仰の構造を読んで 〈2〉
  3. 愛国と信仰の構造を読んで 〈3〉
  4. 愛国と信仰の構造を読んで 〈番外編〉
その中で、他力の思想が自分の考えに基づいて努力することを否定することにつながり、自力で行動する人を弾圧することにまで発展していった話を知りました。

他力ってなんだろう?というのは、以前からずっと疑問に思っていたことでした。「他力にお任せする」という思想を、自力の放棄、自分で考えたり、努力したりすることはしないほうがいいと解釈している人の主張もよく見聞きします。それは違うんじゃないかと引っかかるものがありました。

虫刺されをかきむしってできたかさぶたが、いつの間にかきれいに治っていくのを見ていて、他力の力とはこのことなのではないかと思いました。悪人正機というのも、どんな悪人だって、傷ができれば治っていく、とか、そういうことなんじゃないかと。善人でも悪人でも同じように傷も病気も治り、呼吸も飲食も排せつもできる。

自然界の営みも、善人にも悪人にも分け隔てなく、きちんきちんと巡って恵みをもたらしてくれます。目に見えないところで微生物が土を肥やし、嫌われ者のネズミやモグラやゴキブリなどの生き物も土を耕したり、食物連鎖のバランスを保つ役割を果たしたり、ミツバチも受粉作業を人間の代わりにしてくれます。芽が出て、花が咲き、実を結び、命がめぐり、その途中の過程で恵みをいただいている。

どんな悪さをしても、どんな過ちをしても、どんな失敗をしても、身体は生きるために活動を止めることはなく、自然界の営みもきちんきちんとめぐって恵みをもたらしてくれる。これこそが他力の力なのではないかと思いました。

失敗したり、間違いを犯したりしたら、許されないような環境では、試行錯誤やチャレンジをすることは難しく、おもしろいことは生まれにくいのではないかと思います。しかし、他力の力はどんな失敗をしても、間違いをしても、分け隔てなく我々を生かそう生かそうとしてくれている。だから、自力を思う存分に使ってチャレンジをすることができる。失敗が許される環境のほうが、柔軟にチャレンジができて、人生を楽しむことができる。自由意志を用いて、人生を楽しみ、もっと高度な望みを持つようになれば世の中をよりよく進化させることに貢献する、それを力強くバックアップしているのが他力の力なのではないかと思いました。

人事を尽くして天命を待つ、という言葉がありますが、自力を否定して、他力に委ねる人生もありはありかもしれないけど、それだと死んでいるのと同じというか、パラシュートが付いているのに飛ばない、衝撃を吸収するマットが用意されているのにジャンプせずにその上で寝ている、そんな感じがします。自分の自由意志を用いて、望む人生を創っていくほうが他力も働きやすいのではないでしょうか。

) 関連記事