20160829

続・「言葉は文化だ」

先日、尊敬する通訳者が過去に述べた「言葉は文化だ」という言葉から考えたことを書き、brotherとsisterを日本語に訳すときに困るという話を実例として取り上げましたが、少し前に訳した原稿にhalf-brotherという言葉が出てきて困りました。

half-brotherとは、片親が違う兄または弟のことを指します。日本語に訳す場合、一般的に使われる言葉は異父兄(弟)か異母兄(弟)で、年齡が上か下かに加えて、父親と母親のどちらが違うのかが確定しなければ、訳語が定まりません。日本ではそれが普通だというのはわかるのですが、half-brotherという言葉を見て、プライバシーの意識が欧米のほうが高いと感じました。

歴史上わりと有名な人物のhalf-brotherだったので、調べれば当然、母が違うのか、父が違うのかはどこかに出てきます。しかし、英語のプライバシーの意識、そして、著者があえてそれを明示しなかったという意図を考えると、調べ上げて、どちらが違うのかを明らかにする訳にすることは、本来すべきではないと思いました。当人の人物像だけがわかれば十分であって、両親のどちらが別の相手と一緒になったのかを探るのは下世話で野暮なことです。

そこで、片親が違う兄(どちらが年上だったのかは調べました。さすがに「兄(または弟)」とはできず…)と訳したところ、案の定、異父か異母かを明らかにした言葉に校正されて戻ってきました。しかも、一番使いたくない「腹違いの」になっていて、ものすごく悲しかったです。原文はhalf-brotherというさっぱりした表現なのに、わざわざこんな生々しい日本語を当てたくはありませんでした。

私の感覚では、「腹違い」なんていう言葉は生々しいだけでなく、ある政治家がかつて女性を生む機械とだと言って非難を浴びましたが、そういう生命を育むことに対する畏敬の念が感じられないセリフを彷彿とさせ、女性を何だと思っているんだろう?と思うくらい思慮に欠けた言葉だと思います。ちなみに、父親が違う場合はなんと言うかというと、「種違い」というそうです。こなれた訳だとか、うまい日本語だと思う人も多いようですが、私からすれば、本能だけで生きている生物かなにかに使うような言葉で、高度な人間性を軽視した下品な言葉でしかありません。

先方は「腹違いの」が読み物として力のある表現だと思われている感じで、私の表現だと「健全すぎて眠気を催す」ということでしたが(これ以外の表現についても言っているようだったが、これも含まれると思われる発言だった)、それでも、どうしてもこの言葉は使いたくなかった。しかも、訳者として名前が出る原稿だったので、私がこんな言葉を使ったことになってどこかに残るなんていうのは人生の汚点と言えるくらい嫌でした。父母のどっちが違うかなんて、そこまで下世話に勘ぐらなくてもいい文化もあるということを知ってもらいたいという思いもありました。

こういう表現が「うまい表現」と思われるくらい、日本の文化は遅れているということなのでしょうか? 英語では単にhalf-brotherで済むのに、日本語では、父と母のどちらが違うのかまで探らなければいけないのでしょうか。ニュース記事を検索してみたら「片親違いの」という表現が使われるようになっていたので(そういう意識を持った翻訳者さんたちもいるとわかってうれしかった)、「ニュースでも使われているので」とお願いして、「腹違いの」は「片親違いの」に直してもらいました。

他にも、議論になった訳語があり、「◯◯の雄(ゆう)」という表現に変えられていた箇所がありました。「~の雄(ゆう)」は、二つのうち大きくて勢いの良いほう、特に優れていることやその人物という意味で、「◯◯の雄」は、◯◯について優れた人物という意味になりますが、雄(オス)と雌(メス)ではオスのほうが優れているという観念が根底に感じられる言葉です。「地方創生の雄として注目されている」「書きおろし時代小説の雄」など、新聞や雑誌などでも粋な表現として使われるようです。

先方は、ウィキペディアによればこの人物はブイブイ言わせていたみたいだから「雄(ゆう)」のほうがいい、という意見でしたが、原文自体はそのような男女差別のニュアンスのない言葉だったので、わざわざそんな「オスとメスではオスのほうが優れている」というニオイのついた言葉にしなくても…と思い、よりニュートラルな第三案に変えてもらいました。

「言葉狩りだ」と非難されたり、「英雄の雄までダメとでも言うのか?」(英雄の雄は単なる男という意味でしかなく、雄のほうが優れているというニュアンスはないのであてはまらない例だと思う)というようなことも言われたりするくらい、かなりうるさがられはしましたが、呼吸をするように男女差別が行われている日本においては特に、ジェンダー差別や固定観念のある言葉は、私が扱うものからは極力なくしていきたいのです。原文がそういう言葉なら仕方ないのですが、この場合は、原文にはそういう男女差別のニュアンスがなかったわけですから、わざわざないところに男女差別のある日本語を持ち込まなくてもと思います。

しゃれた表現だとか、おおっと思われるような表現だ、とされる日本語は、ジェンダー意識や倫理観に欠けるものも多いのが残念です。戦争で使われていたような言葉が語源になっているものもあります。言葉を扱う者として、その言葉が背景に持つものや彷彿とさせるもの、根底にある観念などには、常に敏感でありたいと思います。

言葉は文化の反映であり、言葉が変わることで、個人の自由意志を妨げたり、人間性を低下させたりするような慣習が解消されていくということもあると思っています。言葉にはそういう力があると思います。どういう世界をつくっていくことを望むのか、それに応じた言葉を意識して使っていきたいです。もちろん、翻訳の場合は、原文から離れてはいけないので、その制約の枠内でということにはなりますが。

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