20160417

物を「嫁に出す」物が「嫁に行く」という比喩に対する違和感

【旧暦弥生十一日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

過去にも何度かジェンダーと言葉について書いてきているので、よく読んでくださっている方にはお察しの通りですが、私は、こうした表現、見聞きするたび、違和感を覚えます。

日本語の慣用表現に、大事につくった物について、「(物を)嫁に出したくない」、「(物が)お嫁に行きました。大事にしてもらうんだよ〜」などという比喩があります。

「『婿に出す』とは絶対言わないよね?」
「女は物と同じなのか?」
「女は物と同じくらい無力なのか?」
「女は自分の行き先、いや、それ以前に行くか行かないかも自分の自由意志では決められない存在なのか?」

…など、疑問が次から次へと噴出します。

物を「嫁に出す」「嫁にやる」、物が「お嫁に行く」という表現は、法律上の結婚という制度によって女性が男性の家の人間になることに、物を販売する、もしくは、無償で譲ることをなぞらえる比喩です。

以前にも書きましたが、人類最初の贈り物は、女性だったそうです。

人類最初の贈り物は、女性!?―〈中略>―原初の時代、人間は群れの男性たちが自分の姉妹や娘を性的な伴侶とすることをあきらめて外に送り出し、逆に自分たちの伴侶を外から迎え入れる仕組みをつくり出した。つまり、結婚である。近親の大切な女性を贈ることで、内と外をはっきりと分け、そこで成立した内(ウチ)こそが家族という集団であった。そして、女性を受け取った家族集団は、贈り手の家族に必ず家畜や食物、労働奉仕などのサービスを贈り物として渡した。
source: 贈り物をして初めて、ヒトは人間になった:文化人類学者の小馬徹さんと考える贈り物の秘密 : BIG ISSUE ONLINE
これ、「原初の時代」とあるんだけど、今もあまり変わっていないように思えます。

21世紀になってもまだ、「(モノを)嫁に出す」「(モノが)お嫁に行く」なんて表現を普通に使っているんですからね…。こんなこと言ったら、多くの人々に眉をひそめられるような時代になっていてもおかしくないと思うんだけど。パッケージにも平気で書いてあるしね…。

娘=味噌を、嫁に出す=ネット通販で販売するっていう比喩。
自然栽培素材を天然菌で醸したお味噌にまで…
前にも書きましたが、自然派でもジェンダー意識は意外と古い
おいしいんですけどね、ショックでした。
「(モノを)婿に出す」「(モノが)婿に行く」とは言わないことから考えても、結婚において、女が自分の家を出て、男の家に入ることを前提としている表現だということがにじみ出ている表現だと思います。

封建時代ならまだわかりますが、女性が男性の庇護のもとにしか生きられないような時代ではありません。今はもう、だれだって自分で自分の生き方を決められる時代です。歴史を振り返ると、女性はずっと抑圧されて生きてきたけれど、女性は本来一人でも生きていけるくらい強かったんじゃないのかな。

親が、自分の娘を物同然に男の家に売り渡す。結婚時に男性側が、金品を結婚相手の女性の家に納める結納という制度が今もあるそうですが、これも金品と引き換えに女性をもらうような感じがして好きではありません。

「(物を)嫁に出す」などという表現には、きらびやかな衣装をまとい、きれいにお化粧をした「花嫁」は、ラッピングされたプレゼントと同じなのかもしれないとも思ってしまいます。

こうした表現について、女性はそれだけかわいがられて大事に育てられるってことだよー、と言う人もいるかもしれません。わからないでもありませんが、それでも女の子どもが大事だと思うのなら、物と同じにしてもらいたくない。モノ扱いしないでほしい。それに、男の子どもだって大事に育てるほうがいいに決まっている。

かわいい娘と離れ離れになる親の切ない気持ちを表した日本的な表現でしょーっていう人もいるかもしれない。…が、そんなに切ない思いをするような結婚だったら、最初からしないほうがいいんでないの?

結婚したって親子には変わりないわけで、親子関係が終了してしまうような結婚、言い換えるとおそらく嫁ぎ先の親と夫の言いなりになる結婚なんて、望まなければしなくていいと思う。女だって自由に自分を生きていきやすくなった時代なんだから、関係者すべての気持ちを考慮したうえで、自分で望む結婚を選べばいいと思う。女性一人では生活の糧を得ることができずに、生活の糧を提供する男の下でしか生きられなかった時代とは違います。女性だって、今はもう本来の力を思う存分に出して、世のため人のために活躍して、そのお礼としてのお金(お金じゃなくても食べ物や使うものなど生きるのに必要なものでもいい)をもらって、自由に自分を生きたらいいと思います。結婚は、一緒に自由を生きていく人が増えるだけの話であって、親子は親子、家族は家族なんだし、楽しい仲間が増えるだけのこと。そうじゃない結婚なんて、最初からしなければいいんではないでしょうか。

よく、結婚式の花嫁の手紙(結婚する女性が披露宴で実の親に手紙を読む)で、花嫁の「これからも変わらず、私のおとうさんとおかあさんでいてください」で、両親が泣く、みたいなのがお決まりになっているようだけど、そんなこと言わされるような結婚、女がかわいそうやな~と思う。親のほうも泣いてないで、そんなもんあたりまえやろがー!ってちゃぶ台でもひっくり返しとったらええんとちゃうん?とか思ってしまう。これが通用してしまう社会って恐いと思う。

結婚したら家族じゃなくなってしまう。そのくらいの覚悟で相手の家の一員になる。実家の親は泣く泣く娘を手放す。それがザ・日本だというのなら、そんな日本は息苦しいし、かっこわるい。

だいたい、親の感情のために子どもは生きているわけではない。親の感情のために、結婚という大事なことを決められるのが当たり前なのか?と、こういうモノを嫁になぞらえる表現を見ると思う。親のことは、なるべく喜ばせたいと思うし、楽をさせてあげたいと思うし、幸せでいてほしいとは思うけど、自分が大切だと思うことに忠実であるためには、親を喜ばせることと両立しないことだってある。そういうときに、どっちをとるかは個人の自由だと思う。

この、「(モノを)嫁に出す」「(モノが)お嫁に行く」という表現、昔だったら(今も?そうは思いたくないが…)、しゃれた表現だったのかもしれませんが、私には野蛮時代の表現に思えます。だって、女と物が同じ扱いで、結婚と販売が同じ扱いで、女が男の家に入るのがデフォルトで、女の結婚相手は親の思い通りにできるのが普通で…って突っ込みどころ満載の比喩だと思う。

女性を物になぞらえるようなこんな表現は、まぁ、次第に廃れていくのでは。廃れていってほしいなーと思います。

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