20160429

4/29 最近読んだ記事

【旧暦弥生廿三日 穀雨 次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)】

「疲れただれか助けてよって」(ランニングハイの一節)、このフレーズが出てくるってことは、結構疲れている印。すいません、今日は読んだ記事の紹介しかできません…。

ちょっと仕事が立て込んだ(どれもおもしろかったのですが)のと、心労が重なり、ツッコミもコメントも書く力がないのですが、記事が新しいうちに以下、ご紹介します(この形式を始めた理由はこちらをご参照ください→)。

オスプレイまで投入…震災を政治利用する安倍政権の悪辣 | 日刊ゲンダイDIGITAL
http://goo.gl/cB0NE2

<社説>オスプレイ派遣 災害の政治利用はやめよ - 琉球新報 - 沖縄の新聞、地域のニュース
http://goo.gl/y0Bdd6

「熊本地震の被災地支援に23億、パナマのモノレールに2800億」に批判噴出 | BUZZAP!
http://goo.gl/XiEnFc

報道の自由度:米紙「日本がタンザニアより低くなったのはなぜか」 | 沖縄タイムス+プラス
http://goo.gl/j83ESQ

申し入れ|山本太郎オフィシャルブログ
http://goo.gl/ybqJDt
(川内原発即時停止の申し入れをした顛末について書かれている)

元従軍慰安婦の女性たち、熊本地震に寄付「私たちは日本国民と争っているのではない」│ワウコリア
http://goo.gl/kWz0jl


「米軍出て行け」は×で「沖縄への中傷」は○? ヘイトスピーチ対策の与党法案 | 沖縄タイムス+プラス
http://goo.gl/5lsM27


アメリカが「民主社会主義」に変わる?! バーニー・サンダース民主党大統領候補ってどんな人?|格差是正・TPP反対・LGBT権利拡大を訴えチョムスキー、N・ヤング、レッチリらも支持 - 骰子の眼 - webDICE
http://goo.gl/iE4y6R

原発事故の真実を明らかにすれば日本は変革をリードしていくことができる|初の自叙伝『ジャスト・キッズ』を刊行、来日したパティ・スミスが語る震災と原爆 - 骰子の眼 - webDICE
http://goo.gl/k9RdP

アジカン後藤「海外じゃ政治の話できないとバカと思われる」-SEALDsとトーク(志葉玲)
http://goo.gl/g5uNkm
(日本も追いつこうー)

2016/03/05 「しぶとくて、うるさくて、めんどくさい女がどんどん増えればいい」――黙っていたら、自分たちの権利がなくなるだけ」 ~SEALDs 福田和香子氏が語る日本と政治と、女性 | IWJ Independent Web Journal
http://goo.gl/0a7rUL


居酒屋チェーン「鳥貴族」で400人分のマイナンバー盗難被害発生!総務省は呑気なリアクション!高市総務相は過去IWJの質問に流出事故は「総務大臣の責任」と明言していたが…? | IWJ Independent Web Journal
http://goo.gl/YJSO3Y


保育士の給与月6000円(*)増の方針に、民進・山尾志桜里氏「首相は二重にずれてる」
http://goo.gl/6RcCoh
*注:平均6000円で現状の2%増

国会議員の給料 5月分から月額26万円、年間421万円引き上げ - ライブドアニュース
http://goo.gl/3NNmXM
(保育士の給与もっと上げられるでしょっ!)

editor | 自民党参院幹事長「待機児童、働きやすくしたから増えた」→事実は出生数過去最低、子育て世代の女性雇用減少、マタハラ増と育休取得率低下など女性の働きづらさを増幅させた安倍政権
http://goo.gl/IIzdzW


ついにギブアップ…黒田総裁がアベノミクスの失敗“認めた” | 日刊ゲンダイDIGITAL
http://goo.gl/wYpVQg


雨宮処凛さん×勝部元気さん×太田啓子さん│女性の生きづらさ、男性の生きづらさ(その1)「性のモノ化」と「脱法」風俗│ | マガジン9
http://goo.gl/axL6dU


日焼け止め化粧品の使用で体内から環境ホルモンが検出|アーユルヴェーダでデトックス
http://goo.gl/uSWPTr

20160428

傘、盗られる in 香川

【旧暦弥生廿ニ日 穀雨 次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)】

近所のスーパーまで買い物へ行って、出てきたら、ぽつぽつと雨が降り出していました。折りたたみ傘を持ってきておいてよかったなーと自転車のカゴを見ると、こつ然と消えています。どうやら、盗まれてしまったようです。

相方は、慎重派なので、自転車のカゴにはゴミくらいしか残していきません。どんなに重くても、いくらちょっと寄るだけでも、全部手で持って店に入ります。

私は結構香川の人はいい人だろうと信頼していたので、「傘持って入ったら逆に忘れてきそうだしな…」と自転車に置いておいたら、盗られてしまったというわけです。秋田でも、10年住んだ東京でも一度もこういうことはなかったし、香川の人も信用していたので、かなり残念でした…。

20160427

『世界』12月号掲載の「バーニー・サンダースの台頭」を読んで。市民の力はやっぱり大きい。

【旧暦弥生廿一日 穀雨 次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)】

岩波書店の『世界』の2015年12月号掲載の「バーニー・サンダースの台頭」という記事を読みました。

世界 2015年 12 月号 [雑誌]

「リンカーンやルーズベルトが果たせなかった経済的正義実現の闘いを引き継ぐ米国の歴史的な文脈で語られるべき」とあり、すごい時代になってきたものだと思いました。

特に心に残ったのは、次の部分。
サンダースは、どのような複雑な問題について質問されても学校の先生のように分かりやすくすらすらと説明でき、指摘された無知や過ちから迅速に学ぶ姿勢がある
「指摘された無知や過ちから迅速に学ぶ姿勢」について、この記事の執筆者の宮前さんは、シアトルの集会で起こった出来事を実例として挙げていました。

20160426

『コンドルの血』という映画のこと

【旧暦弥生廿日 穀雨 次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)】

先日、『右翼と左翼はどう違う?』という本を読んだ話を書いたのですが、その中に『コンドルの血』(1969年:ウカマウ集団)という映画のことが出てきました。

『コンドルの血』作品紹介より
インタビューで登場する方が、南米を旅していたときに知って衝撃を受けたというドキュメンタリー映画で、その内容を知って、私も驚愕しました…。

この映画は、アンデスの寒村(現在のボリビア)に、平和部隊として入ってきた北アメリカ人の医療チームが、先住民の女性たちに、強制的に不妊手術をしていたことを告発した映画。この映画をきっかけに人々は、ボリビアから北アメリカの平和部隊を追い出した、とありました。

20160425

国連・表現の自由調査官「日本の報道の自由は深刻な危機にある」。報道の自由度ランキングは72位に転落。

昨年11月に本当は来るはずだった国連の表現の自由に関する調査官の方が、ようやく来日を果たしました。政府が受け入れを拒んでいたために、なかなか来られなかったのだそうです。国際基準で日本の今のメディアの状況を見ると、どのような評価になるのでしょうか?

フリージャーナリストの田中龍作さんが現場にいながらツイッターに連投してくださっていたので、ご紹介します。臨場感たっぷりでしたし、「それって、このことを指して言っているのだろうか?」などと、読みながら、自分の頭で考える訓練にもなりました。


穀雨の次候は第十七候「霜止出苗(しもやみてなえいずる)」。霜が降りなくなって稲の苗が芽を出す頃。

【旧暦弥生十九日 穀雨 次候 霜止出苗(しもやみてなえいずる)】

七十二候は今日から「霜止出苗」(しもやみてなえいずる)に入りました。「穀雨」の次候で、遅霜の心配がなくなり、種まきをした稲から芽が出る頃という意味です。「穀雨」に入ってすぐに、田んぼの真ん中に作った苗代に種をまきました。
そろそろ芽が出たかな?と楽しみです。最初の年は試行錯誤の連続で、時間がものすごくかかりましたが、3回目となると手慣れたもので、半日で終わったそうです(相変わらず私は田畑には行けない)。

ホームセンターや産直では4月始めから夏野菜の苗が売られはじめ、今じゃ早過ぎるやろ~と思っていたのですが、霜の心配がなくなったら、そろそろ夏野菜の苗を植えても大丈夫かな?と思っています。この辺は盆地のためか、まだまだ朝晩の冷え込みが厳しいので、近所の畑を見ると、肥料袋などで行灯にしたり、キャップをかぶせたりして、保温をしているようです。まだ少し早いかもなぁ。


20160424

芸術の存在意義を改めて。

【旧暦弥生十八日 穀雨 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)】

昨日、『右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術)』を読んでの感想のようなものを書きました

「右翼」でも、「左翼」でも、団体に傾倒していって、その団体のなかで、自分の考えを構築していって磨き合って高めていくのならいいけれど、そうではなくて、その団体の考えに染まってしまう人もいます。その傾倒していく前段階には何があるのだろう。

著者の雨宮さんが、どういうふうにして右翼団体に所属するようになったのかを書かれていました。この生きづらい世の中において、自分がなぜ日本人として存在しているのか、なぜ生きているのかということに疑問を持つようになり、よりどころとなるものとして、たまたまタイミングよく、右翼の思想が現れた、という経緯だったのだと思いました。

20160423

雨宮処凛さんの「右翼と左翼はどうちがう?」を読んで 

【旧暦弥生十七日 穀雨 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)】(2016/9/3 文末に関連記事を追加)

戦争をなくしたい、環境を守りたい、貧富の格差をなくしたい、原発をなくしたい、などと言っていると、「左翼」というカテゴリーにどうも入れられるらしいんだけど、私は自分のことを左翼だと思っていないので、どうも腑に落ちない。そもそも、「左翼とか右翼って何やねん!」と思っていたら、相方が、「図書館にこんな本あったでー」と借りてきました。

右翼と左翼はどうちがう? (14歳の世渡り術)

文庫版もあります。

20160422

ルサンチマンに負けるな。

【旧暦弥生十六日 穀雨 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)】

最近、さまざまな偉人について、じっくり読む機会がありました。翻訳のお仕事でいただいた原稿で、さまざまな偉人が次から次へと出てきます。

調べないと訳せないので、ウィキペディアや百科事典などで、その人物について調べます。名前を聞いたことがある程度だった人々が、その人について調べて読んでいくうちに、だんだんと身近になってきます。

偉人というのは、同調圧力に負けずに、自分を貫き通した人なんだと思いました。同調圧力に負けないと言うと、言葉はかっこいいように聞こえるけれど、必然的に、孤独になるということです。

20160421

復讐心が起こったとき

【旧暦弥生十五日 穀雨 初候 葭始生(あしはじめてしょうず)】

人間、生きていると、いいことばかりでもありません。陥れられたり、騙されたり、蔑まれたり、自分勝手すぎる人に振り回されたり、ひどい仕打ちにあったり…といったこともあります。

そういうとき、同じ気持ちを思い知らせてやりたい、という気持ちが起こってきます。復讐心というやつです。

目には目を、で、相手と同じような言葉や、同じような行動を、同じような態度を、そのままそっくり返して、どういう気持ちになるか思い知らせてやろうか、という気持ちが起こることもある。でも、そういうときは、すぐに行動を起こさずに、冷静になれるまでできれば待つようにしています。「目には目を」で返報することが、自分とまわりのために、ときには、世界のために、一番いい結果をもたらす行動だろうか?ということを、冷静に、客観的に考えられるようになるまで、なるべく静かに過ごします。

一見損をしているように思えるのです。自分ばかりが痛手を負う。相手はのうのうとしてうまい汁を吸っている。「なんで自分ばっかり?」という疑問が、何度も何度も浮かんできます。

相手にもっとすごい痛手を与えようと思えば与えられるけれど、それをして、果たして、長期的な目で見たときに、自分はいい気分になるだろうか?と考えると、そうでもないのです。一瞬はスカっとするのかもしれないけど、相手を自分の復讐心を満たすためだけに傷つけても、きっと、後々、自分の心が痛むのだと思います。相手に受けた傷よりも、もっと痛いかもしれない。

だいぶ昔のことになりますが、もう何時間も泣き続けるくらい嫌なことがあったとき、復讐心が起こったけど、何も仕返しをしなかったら、すごく悔しくて、少しでも言い返してやればよかったと、何日も落ち込んだことがありました。

でも、その後しばらくして、冷静さを取り戻してから、「オトナだったら、立派な人間だったら、きっとこうするだろう」と自分が思う行動をしたら、気分がよくなって、自分をほめてあげたいと思えました。そうしたら、自然と相手の至らなさも、返報もどうでもよくなりました。相手が至らないことをするのにも、育てられ方や、今まで出会ってきた人たち、経験してきたこと、今の経済状況や健康状況など、さまざまな事情があってのことなのだろうと、思いやりが持てました。そういうときの心持ちというのはとても心地よく、清々しいものでした。

こういう経験をした結果、仕返しをしてもつかの間のスカッと感だけで、罪悪感や自己嫌悪を引きずることになるのだから、ぐっとこらえて「立派な人間だったらきっとこうするだろう」と自分が思う行動をしたほうがいいなぁと思うようになりました。

まだまだ未熟者だから、すぐに怒るし、トンチもユーモアも足りないし、頭の回転も早くはないけれど、立派な人間になるには、泣いて、歯を食いしばってぐっと堪えて、冷静になってから、自分とまわりにとって最善だと思える行動を積み重ねていくことなんだろうと思います。

20160419

初対面で年齢を聞いても、関係の構築に負の結果しか生まないと思う理由

【旧暦弥生十三日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

昨日は、ところによって違いのある初対面でのコミュニケーションの始めかたについて書いたのですが、そういえば、香川に来てから、初対面でいきなり、「何歳なんですか?」と年齢を聞かれることが多くて、ちょっとびっくりしています。秋田でも東京でもそういう場面に遭遇したことがなかったので…。「名前は聞かないのに、年は聞くんだー(゚д゚)!」というときも結構ある。香川県民だけではなく、移住の人からもたまに聞かれます。主に男性。

年齢なんて別に、知られたってどうってことないことなので、正直に答えてるんですが、聞いたほうはたいてい、「へー若いんだ~」(逆は思っていても言われないだろうが)とか、そういう感想だけで、自分は年齢を言わない。聞くことは美しいことに思えないので、聞き返しませんが、この情報ギャップ、かなーり、不公平な感じがして、いや~な感じがします。

年齢って、聞いても負の結果しか生まないと思うんですよね。

20160418

初めて会う人とのコミュニケーションのはじめかた。ところ変われば違うものです。

【旧暦弥生十ニ日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

私と相方と二人で、初対面の人と会うときの、相手のコミュニケーションのスタートの仕方は、国や地域によってかなり違いがあっておもしろいです。

イギリス出身の人と、アメリカ出身の人は、「わたしは◯◯(名前とか愛称)です。どこそこから来ました。今はここでなになにをしています。よろしく(ニッコリ)」みたいな感じでした。どちらも香川で会った方です。

20160417

物を「嫁に出す」物が「嫁に行く」という比喩に対する違和感

【旧暦弥生十一日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

過去にも何度かジェンダーと言葉について書いてきているので、よく読んでくださっている方にはお察しの通りですが、私は、こうした表現、見聞きするたび、違和感を覚えます。

日本語の慣用表現に、大事につくった物について、「(物を)嫁に出したくない」、「(物が)お嫁に行きました。大事にしてもらうんだよ〜」などという比喩があります。

「『婿に出す』とは絶対言わないよね?」
「女は物と同じなのか?」
「女は物と同じくらい無力なのか?」
「女は自分の行き先、いや、それ以前に行くか行かないかも自分の自由意志では決められない存在なのか?」

…など、疑問が次から次へと噴出します。

物を「嫁に出す」「嫁にやる」、物が「お嫁に行く」という表現は、法律上の結婚という制度によって女性が男性の家の人間になることに、物を販売する、もしくは、無償で譲ることをなぞらえる比喩です。

以前にも書きましたが、人類最初の贈り物は、女性だったそうです。

20160416

私がこのブログでしたいこと、一言で言うとそれは個人のempowermentなのかもしれない。

【旧暦弥生十日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

このブログを書いている目的というか、意義というか。そういうものについては、旧暦大みそかに振り返ってみたのだけれど改めて考えてみたいと思いました。

相方が本格的にブログを書き始めたこともあり、内容が重ならないように、私は自然農についてや、古民家改装などの日々のこと、食べ物のことなどは、最近はあまり書かなくなっています。

というのも、共通の友人が多いので、どっちも読んでくれている(だろう)から両方で同じものを読むよりは、違う話題のほうがおもしろいだろうな、という理由が一つと、あとは、相方はおもしろくなってたくさん書き始めたらアクセス数も右肩上がりで(大体だけど一日当たりのPVは私の4-7倍くらいある)、収益化も視野に入れているので、どっちも書けるような情報はなるべく相方のほうに集約したほうがいいだろうな、というのもあります(私はというと、前にも書きましたが、あんまり本格的に収益化する自信がまだありません)。

読みにきてくださっている方々が、もし、これらにも関心を持ってくださっていて、読みたいと思っていただいているのであれば申し訳ないな、と思い、改めて各記事の閲覧件数を見てみました。ほとんど読まれてないですね(笑)。多く読まれているのは、政治や社会のことがやっぱりダントツで多く、あとは、私が人間全般や言葉について思ったり考えたりしたこと、ジェンダーのこともよく読まれているようです。

うん、なんとなくね、そう思ってました。自然に沿った暮らしのtipsなどに関心を持つ以前の壁があるだろうなぁと。個人のempowermentができてないと、そういう暮らしをしてみようかな、どうやるのか知りたいな、という気にさえなれないだろうなと思っていました。

個人のempowermentというのは、一人一人に力、powerがあるっていうことを、もう一度、思い出してもらって、使ってもらうこと、活かしてもらうこと、そういうことだと私は定義しています。言い換えるとpower to the peopleといったところでしょうか。

投票もそうだし、自分の望む選択を日々していくこともそう。そういう意味では引き寄せの法則もそうかも。大多数と違っていたって、自分の意見を言うこともそう。人と自分が違うということを認めているだけでもいい。食べ物や使うものを手づくりしていくこともそうかなぁ。働き方や機会を含めた生き方を自分でつくっていくこともそう。

個人に選択の自由があるということ、行動の自由があるということ、思考の自由があるということ、それを忘れてしまっている、あるいは無意識に手放して、なにかに委ねてしまっている人が多いように思う。だから、自分にこの世の中を、自分の生き方を創造していく力があるんだっていうことを、もう一度思い出してもらいたい。それを、個人のempowerment、self-empowermentと私は呼んでいます。

私は、このself-empowermentに役立つものを書いていきたいと思っています。選択の自由、行動の自由、思考の自由をフル活用して、望む世界をつくるためには、知ることが重要だから、世の中のいろいろなことについても書いています。知らないと、自由を手放して何かに委ねていることにすら気が付かないから。私一人の考えるプロセスを公開しているのも、自分の頭で考える人を増やしたいという気持ちもあります。

self-empowermentがまだできていない人は、たとえ、自然に沿った暮らしをしていても、自己肯定感の低さから、反抗心、虚栄心、そういったものを動機にして実践してしまう人もいる。そういう人たちは、ささいな意見の違いですぐに人を敵にするし、「サステナブル」や「スピリチュアル」の「科目」で競争を始めたりもする。健全な意見交換のを前提に調和を広げようっていう意識がなかったり、お互いに気持ちよくの心配りができなかったり。自然派の人たちにもいろいろいて、ちょっと幻滅したのもあるかなぁ。あと、自然の暮らしが長くなってきて、だんだん、こっちのほうが普通になってきて、何が珍しい(?)のかちょっとよくわからなくなってきたのもあるかも。たまにテレビを見るとびっくりしたりして、何か書きたくなったりもします。

つらつらと書きましたが、一言で言うと、このブログでやっていきたいことは個人のempowermentということかなと思います。ほんとはね、暮らしのことや畑のことなんかも、相方とは違う視点から書けたらいいのだけど。書けば書くほど書きたいことが出てきて、お伝えしたいことも山のようにあるのですが、なかなか追いついていない状況です。だからちょっと言い訳ではあるかも。時代や私自身の変遷で、またこのブログもどんどん変わっていくかとは思いますが…。

)関連記事
20160207 なぜブログを書くのか

20160415

「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか。

【旧暦弥生九日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

ここのところ、頭で考えること、思考を否定する考えに対して、自分が思うことを書いてきましたが、最近思うのが、「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか、ということです。あくまでも、個人的な経験と、体感をもとにした意見ですが。

私は「思考」によって、自然とともにある暮らしをすることが、合理的であり、楽しいことであると思うようになりました。そうして、自然とともにある暮らしをするようになったら、自然からのインスピレーションのようなものを受け取ることが増えてきたように思います。「直感」も高まってきたように感じます。

「思考」をわるいことに使うのはいけないと思いますが、思考も否定せずに正しく作動させて、思考力を高めていけば、自ずと、「直感」や「感情」も感度が高まっていくような生き方にたどりつくものなのではないかと思います。

こういう暮らしをするようになってから、ふとしたときに、なんだか不思議なインスピレーションがわくことがあります。「ん? これって私が普段使っているような語彙じゃないよね?」と思う言葉が唐突に浮かんできたりします。つい最近の例ではこの前書いた「おかげさま」など。「自分に返れば、自ずと分かれ、自ずと分かる、それが自分」とか「えええー?それってどういう意味??」みたいなのもたまにあります。だれかの至らない行為に「なんでそういうことするんだろう?」と憤慨していたら、突然浮かんできた「あなたのところで終わりにしなさい」、あれも謎だったなぁ…。なんとなく引かれる方向へ行ったら、探していたものに出会えたり、会いたかった人に会えたり、おもしろいものがもらえたり、ということも。

思い描いたことが、結構現実になってしまうことが、自然とともにある暮らしをするようになって、私の体感としては多くなってきました。「石川県に住む友人に会いに行きたいな」と思っていたら、金沢旅行が当たったり、「パン屋さんができたらいいのになー」と思っていたら近所に大阪から移住してきた人が石臼挽きの自家製粉小麦のパン屋さんを開店されたり、「イオンに無印良品があれば最高なのに」と思っていたら数カ月後にイオンに無印ができたり(これはみんなも思っていたからかもしれないけど)、ミラクルが重なってびっくりすることがあります。どうしているかなぁ、と思い浮かべていた友人とばったりどこかで出会ったり。

だけど、直感を磨いている最初のうちは、それが自分の頭で捏造した「お告げ」なのか、それとも、本当に自然からのインスピレーションなのかが判断できない。たぶん。少なくとも私はそうです。インスピレーションかな?と思ったものを、自分のいい方向に役立てられるように、咀嚼して消化するのに「思考」は必要なんですよね。わるいものじゃないかどうか判断するのも「思考」です。

直感が変わってきただけでなく、感情もものすごく複雑に敏感になってきた気がします。欲望(も感情の一種か?)も、それは外部から操作されてのものなのか、自分の内側から湧いてきているものなのかが大きく違ってわかるようになったし、怒りや悲しみの感情も全身で感じるようになってきました。

それを後から「思考」をつかって分析しているから、また「感情」から学ぶし、「感情」も種類が豊かになってきたように思う。単純ではなくなってきたように思います。本来の感受性が研ぎ澄まされてきた感じで、たまに人と会うのが続くとつらかったりもする。そういう揺り戻しが起こっていて、これを乗り越えたらまたもっと人間的に成長できるのかなぁと、「思考」している自分がいます。

感情をもとに、直感をもとに思考して、思考をもとに行動を変えていったら、感情も直感も磨かれているような気がします。よく、スピリチュアル系の人は、「頭で考えるのをやめなさい。そうすれば直感とつながれる」と言ったりしますが、私の体感としてはむしろ逆で、頭(理性?)を使って考えて、行動をよりよくしていくことで、感情が豊かになり、直感も冴えてきたように思います。

頭も心も否定しないでほしいと思います。両方持って生まれた人間なのですから、バランスよく使っていけばいいと思います。

)関連記事
20160413 「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話
20160412 「頭で考える」こと自体がわるいのではない。問題なのは、何に思考力を使うか。

20160414

清明の末候は第十五候「虹始見」(にじはじめてあらわる)。雨の後に虹が見え始める頃。

【旧暦弥生八日 清明 末候 虹始見(にじはじめてあらわる)】

今日から七十二候は第十五候「虹始見」(読み:にじはじめてあらわる)に入りました。雨の後に虹が見え始める頃という意味になります。

11月末から12月初め頃に、「虹蔵不見」(にじかくれてみえず)がやってきます。小雪の初候にあたります。この頃から虹が見えなくなり、日差しが強くなってきたこの時期に、また見えるようになるのですね。すっかり暖かくなり、てんとう虫の幼虫やアシナガバチなど、虫たちの動きも活発になってきました。

ここのところ、3日晴れては1日中雨降りのようなお天気が続いていて、雨の後にはわーっと草が伸びます。近所では、草刈り機の音も毎日のように聞こえるようになりました。除草剤がホームセンターなどで面陳になるのもこの時期…。この時期になるといつも香川を出て行きたくなります。冬の間は除草剤を見かけなくなるので、すっかり忘れて、「ええところやな~」と思うのですが…。

グリホサートを主成分とする一般的な除草剤は環境にも身体にもよくないので(参照:例えば→Huffington post 科学者「モンサントの除草剤は飲んでも安全」じゃ、飲んでみて? と言ったら......など)、ずらりと並んだラウンドアップを見るとぞっとします。今年はもう除草剤がまかれて茶色くなっているところもあります…。秋田ではまず見られない光景でした。広島のある地域では、よっぽどよぼよぼになって動けなくなっていれば「それはしかたないね」と思われるけれど、そうでなければ除草剤を使うなんて情けないと思われると聞きました。地域によるようですね。

20160413

「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話。

【旧暦弥生七日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

おととい昨日と「思考」を否定する言説について思うことを書いていて、かつて、私も「頭で考えるの、やめよう」と思ったことがあったことを思い出しました。

パパラギ」という本を読んだときに、「考えるという重い病気」という一節がありました。
パパラギ (SB文庫)

20160412

「頭で考える」こと自体がわるいのではない。問題なのは、何に思考力を使うか。

【旧暦弥生六日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

昨日、"「頭で考えるな」という批判について。"というタイトルの記事を書きました。「頭で考える」ことを全否定するのではなくて、頭と心をバランスよく使うのが大切なのではないか、ということについて書いたものです。

これについて相方と話していたら、相方は、

「頭か心かではなく、心は頭の土台。どちらもよくなければならない。あるいは、直感はエンジン、感情と思考は車の両輪に例えることができる」

と言っていました。直感をきっかけにして、感情と思考を使って意見や行動を構築していく、ということだそうです。どちらが欠けても前に進むことができない。

頭で考えるのがわるいのではなくて、思考を何に使うかが大切なこと。思考はわるいことを遂行するのにも使えてしまうので、心を鍛錬することも非常に重要です。心を鍛錬しておけば、思考をいいことを遂行するために使うことができるからです。

「頭で考えるな」という人は、「心に従え」と言います。「心に従う」というのは、「直感に従いなさい」「考えるんじゃない、感じるんだ」という言葉で言われることもあります。つまり、直感や感情を道標にするということだと思います。

しかし、そういった人たちは、多くの場合、「直感」も「感情」も使いこなせているわけではないように感じます。だれかの言説を「頭で考えて」鵜呑みにしているだけだったりします。

「直感に従え」「考えるんじゃない、感じるんだ」と言う人も、結局はそれを頭で考えて命令しているだけだというのは、なんだか皮肉なことに私には思えます。「頭で考えるな」と言う人のなかで、直感と感情が使いこなせているのではないかと思う人にはまず会ったことがありません。

せめて、「思考」をやりきってからその境地に達しているのならばまだ納得ができるのですが、思考の放棄や、思考を中途半端にしていることの正当化に「直感と感情のみに頼ること」を使っているように感じます。「現実を直視しない言い訳にしないでほしい」、「考えない言い訳なのでは?」、と言いたくなることもあります。

結局のところ、現状では、「直感」だけで「神さま」や"something great"と呼ばれるものとつながって、人生を歩んでいける人ではないのだから、「思考」を頼りにするほかないんじゃないだろうか。チャネラーを名乗る人にも怪しい人もいるし…。「思考」を全否定してると、そういう怪しいスピ系の人に騙されたりもするし、世の中の望ましくない動きを止めることもできなければ、自分が望む方向に動かすこともできません。

心も鍛えつつ、思考力を高めることもやっていったらいいと思います。どちらかが優れば、どちらかが減るものでもないんですから。頭を使わない惰性の正当化のために、「頭で考えるな」と批判してくる人の言うことなんか、気にしなくていいと思う。もちろん、わるいことを遂行したり、人をだましたりするのに、思考力を高めることはよくないと思いますが…。「思考」がわるいんじゃなくて、それをどう使うかに問題があるんだと思います。

)関連記事
20160415 「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか。
20160413 「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話。
20160411 「頭で考えるな」という批判について。

20160411

「頭で考えるな」という批判について。

【旧暦弥生五日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

論理や科学の行き過ぎからか、「頭で考えるな」という批判をよく耳にするようになりました。直感や感情を置き去りにしてきたことへの反動だと思います。

しかし最近は、その「頭で考えるな」という批判が行き過ぎて、思考を全否定するようなことを言われることも、私の体感として増えてきました。スピリチュアル系の人たちにも多いし、自然系、とりわけ発酵好きの人たちにも多いです。

具体例を挙げれば、「大脳を使うと直感が鈍る」というスピリチュアル系の人たちがいましたが、根拠が定かではありません。発酵好きの人たちの中には、「腸で考える」ということを合言葉のように言う人たちがいます。私にはその「腸で考える」という感覚が理解できないし、感じとることもできません(腸内細菌の働きを模範に、社会のなかにいる一人一人の役割や、動きを「頭で考える」というのだったら理解できるのですが)。

権力側や、99%の市民から富を吸い上げている1%の富裕層たちは、考えない人を増やしたほうが好都合でしょう。考える人や思考力の高い人が増えると困る。何も考えずに、マインドコントロールしやすい人たちが増えたほうが、自分たちの望むように世の中を動かしやすいからです。

「頭で考えるな」と言う人たちは、こういう勢力にうまく使われてしまっているように感じます。直感がすこぶる優れている人が増えていれば話は違ってきますが、現状は、直感も感情も育たないまま、考えない人間が増えているだけのように私には思えます。

こうした批判が頭を使わない考えない人間を増やすことにつながっているのではないかという危惧を感じています。直感や感情がなおざりにされるのがよくないということには同意見ですが、論理や思考を全否定することなく、頭も心もバランスよく使えばいいと思います。

)関連記事
20160415 「思考」と「直感」は両方同時に高められるのではないか。
20160413 「考えるという重い病気」という一節を読んで、考えるのをやめようと思った話。
20160412 「頭で考える」こと自体がわるいのではない。問題なのは、何に思考力を使うか。

20160410

防御や反論よりも、正しい情報をわかりやすく伝えていくほうが効果が高いのかも、と思った話。

【旧暦弥生四日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

「右翼」とか、「左翼」とか言う呼び方は、曖昧すぎて本当に嫌いなレッテル語なんですが、いわゆる「右翼」と呼ばれる人々の考え方や主張も知っておいたほうがいいのかも、と思うことがあります。そうしないと、議論ができないから。

どういう考え方から、駐日アメリカ軍基地をよしとしているのか、日本の軍国化をよしとしているのか、原発にも賛成(これは原爆をつくる材料が持てるからなんだろうけど)、慰安婦の問題をないことにしようとするのはなぜなのか、韓国の人や中国の人を敵視してヘイトスピーチまでしてしまうのはなぜなのか。

そういうことがわかったら、事実として違うものは違うと話せば、事実をきちんと知れば、考えを改めてくれるんじゃないか。そう思って、「右翼」と呼ばれる人たちが信じこんでいそうな人たちの本も読んでみないとダメかなーと思っていました。

でも、どれも手にとる気になれないのです。まず、著者の顔の写真を見ただけで、ちょっと引いてしまう…。写真が載っていないものを手にとってみるものの、文章の攻撃性にさらっとパラパラしただけで、読み続ける気になれない。

たまたま目に入った数行に、論理が破綻しているものもある。全部の情報を調査したわけではないですが、ぱっと見たところ、私が知っている事実からすれば、嘘八百としか思えないようなことが書かれている部分もある。

とてもじゃないけど、身銭を切ってまで読む気になれないのです。「お金で投票する」という考え方では、「お金を払う」ということは、それを支持するということでもあるので、それを支持することは私はしたくない。

でも、彼らの意見も、聞いてみないことには、事実認識の相違があるところを正していけないし、どうしたらいいのかなぁ、と、ずーっと右往左往してきたんですが、ふと、思ったのです。

日本の軍国化が好きな人たち、隣人をヘイトする人たちを説得するよりも、まだ政治や社会のことに関心がない人たちに、正しい情報を伝えていくほうが、ずっとインパクトが大きいのではないかと。

私も数年前までは、社会のことに全く無頓着な人でした。大学時代に、「選挙行ったことない人?」と先生に聞かれて、手を上げて怒られた話を昔書いた通り、英語にしか興味のない「英語バカ」でした。英語は言語=伝えるツールでしかないんだから、英語ができたって、伝えるべき中身がなかったら全く意味がないのに、そんなことにさえ気がついていなくて、社会のことを広く考えるという姿勢がなかった。

そんな自分が、3.11の震災以降、世界で起こっていることに関心を持つようになって、まったく白紙の状態から、環境と平和を守る方向に、考えが動きました。

戦争好きで大企業寄りの人たちのものも、環境や平和を愛し、弱者を守りたいという市民寄りのものも、両方あったはずで、どちらかと言えば、大企業寄りの人たちの声のほうがずっと大きかったと思うんだけど、自分で情報をとりにいって比較して考えるようになって、こっちが本当だと思う、と思ったのは、環境や平和を愛する市民よりの人たちの声でした。

日本の投票率の低さから考えても、権力には抵抗できないと無気力になっている人々や、かつての私のような無関心な人々はまだまだ多い。無関心な良心的な人々に、正しい情報を伝えていけば、知りさえすれば行動を起こす人も増えてくるのではないかと思います。無関心な良心的な人々のほうが、いわゆる「右翼」の情報を信じこんでいる人々よりもずっと多いのではないかと思うので、きっと、正しい情報を広く発信していくほうが効果が高いのではと思いました。

政治状況が最悪ななかで、もう残された時間は少ないのかもしれない。効果の高いところから時間を使っていくほうが賢明だと思うので、「右翼」と呼ばれる人々が信じている言説を精査するのはやめることにしました。正しい情報をきちんと整理して伝えていくだけでも、今の私にはまだまだ時間のかかることなので。正しいかどうかを判断するというよりもは、まだ、「このことについては、自分はまだ何もわかっていないんじゃないか?」というところから情報集めをするので(背景知識がまだまだ追いついていないから)、とても時間がかかります。反対意見に反論したり、それに対して自分の意見を防御する用意をしていくことよりも、無関心な人たちに、正しい(と私が思う)情報をわかりやすく伝えていくことに力点をおいたほうが効果的だというのが、今のところの結論です。

20160409

清明の次候は第十四候「鴻雁北(こうがんきたす)」。雁(がん)が北へ帰るころ。

【旧暦弥生三日 清明 次候 鴻雁北(こうがんきたす)】

Wild Geese
photo by liz west on flicker
今日から清明の次候「鴻雁北」(読み:こうがんきたす)に入りました。雁が北の寒い国へ帰る頃という意味になります。

初候の「玄鳥至」(げんちょういたる)でツバメが来たと思ったら、冬の渡り鳥の雁が北の国へ帰っていきます。雁が日本へやってくるのは、10月の初め頃で、寒露の初候に第四十九候「鴻雁来」(こうがんきたる)という七十二候があります。

カルガモやマガモはよく見かけるのですが、雁(ガン)を見かけたことがありません。出身の秋田で暮らしていた頃は、V字になって上空を飛ぶ雁の群れをよく目にしていたので、香川では見かけなくなって、不思議に思っていましたが、調べてみたら、北海道と東北で春と秋に飛行が見られることがほとんどで、島根県以西で見られることは稀とのこと(参照:サントリー日本の鳥百科マガン)。なるほど、どうりで見かけないわけです。

飛来するマガンの7割近くが宮城県の伊豆沼に来ていて、秋田はその中継地点だったそうです。近年、温暖化の影響で、渡りの時期にズレが見られたり、中継地点はずだった場所にずっと残ったり、数が集中し過ぎて農業にダメージが出るようになったりといった変化が見られているということで心配です(参照:目撃者の証言:ガンの「渡り」が変わってゆく)。

マガンのほかには、カリガネ、ヒクシイなどが日本に生息しているそうです。雁が帰るのと来るのが、七十二候に入っているくらいなので、昔は日本全国で見られたのか? いずれにしても、ここ香川では雁の渡りは見られないので、春と秋の本格的な訪れを知らせてくれる鳥はツバメだけ、ということになります。

先日、今年初めてのツバメを近所の酒屋さんの前で目にしました。4月6日だったかな。ツバメの渡りの時期は、暦代わりにできてしまうほど正確で驚かされます。

20160408

いっぱい本を出しているからって、正しいことを言っているとは限らない。

【旧暦弥生二日 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

本屋さんに久しぶりに行ったら、一瞬、「戦前?」と思うような雑誌コーナーに出くわしました。日本刀が表紙にずらりと並んだムック、国粋主義的な雑誌、戦争にロマンを感じるような雰囲気の表紙の雑誌、などなどが並んでいて、ちょっとぞわーっとしました。普通の本屋さんです。

おんなじ人が、いっぱい本を出していて、いっぱい平積みになっているのもぞっとしました。

ぱっとみた感じ、陳列台1台の5~8割を1人で占領していたのは、池上彰さん(「週刊こどもニュース」でおなじみのジャーナリストさん)、竹田恒泰氏(この時代錯誤のツイートで初めて名前を知った→)、ケント・ギルバート氏(基地反対市民が日当2万円の給与をもらっているという根も葉もないデマを拡散しているタレント→参照)など。

いっぱい本出してるとすごい人なんだーと思って、信じてしまう人って結構いるのでは。池上さんのようにいい本を出されている方ももちろんいるんですが、たくさん本を出しているからと言って、その著者の言うことが必ずしも的を得ている、正確である、とは限りません。出版業界もとりあえず売れそうな人に声をかけてガンガン出させる、っていう感じになっているとも聞きます(ちきりんさんとか→)。

従って、いっぱい本を出しているからといって、まともな内容を書いているというわけではありません。嘘でもデフォルメでもなんでもいいから過激なことを言う、すると読者が快感を覚えていっぱい買ってくれるっていう人もいるし。「いっぱい本を書いているこの人が言っているから」と信じるのではなくて、内容一つ一つの真偽を確かめて、主張を下支えしている事例が正しいかどうかを検証する必要がある。そのためには、多様な人の意見を聞くことが重要で、人によって事実の認識に差異がある部分は、検証の余地があるということ。どっちの言っていることが正しいかどうかが一目瞭然なこともあります。

一部の人たちの声が大きくなるのは、本当に危険だと思います。多様な意見ではなくて、一部の人が棚を占領している。ぱっと目に入る円内、同じ顔。棚がジャックされてる感じ。多様な意見を比較検討することが大切なのに、同じ人の主張が本屋さんの多くの面積を占めているのは危険なのではないかと思いました。

今はまだ読者の思考力、判断力の水準が全体として低いために、嘘八百の本や論理が破綻している本など、おかしな本でも売れてしまって、いっぱい出せてしまう、という現象が起こっているのではないかと思います。読者のほうが賢くなって、情報の真偽が判断できるようになれば、「いっぱい本を出している人」=「すごい人」になるはず。みんな本当はきっといい頭を持っているんだから、使わなきゃ。自分の頭で考える人を増やしたいです。

20160407

私はこうしたい、ってはっきり言うのは大事かも。フェイスブックの利用方針を投稿したらすっきりしました。

【旧暦弥生朔 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

少し前に、フェイスブックが嫌になってきた話を何本か書いて、やめようかどうか悩んだりもしていたんですが、自分なりの利用方針をはっきり書いて投稿したら、なんだかすっきりしました。

自分はこういうふうに使うというのをはっきりさせておくのは、モノと人の主従関係が逆転しがちなこのご時世、結構大事なことなのかもと思いました。私はこれが嫌、こうしてもらいたい、とはっきり言っておけば、声が上げられない多数の人たちの代弁というか、「あ、これ、私は気にならないけど、気になる人もいるかもな」と、ちょっと考えてみてくれる人が増えるかもしれません。

何を書いたかと言うと、私の顔がはっきりわかる写真を無断で不特定多数に投稿しないでもらいたいこと、外部サイトからシェア機能などを使って投稿しているけど、本体のページはあんまり見ていないことなどを書きました。

写真の投稿は、たぶん、親切心でしてくれている人もいると思います。集合写真をメールでデータ添付するような感覚なのかもしれない(過去に、私が写っていた写真を無断で、営業目的も兼ねて投稿していた人もいたので、親切心でしている人ばかりではないんだけど)。それが不特定多数に公開されていることについて、考えが至っていないだけで、悪気はない。でも、嫌なものは嫌だって言っていいと思うんですよね。なるべく配慮は必要だと思うんですが。

相手も嫌な思いをさせようと思ってしているわけでなく、親切心でだと思うので、相手が喜ぶことをしたいと思ってくれている人がほとんどでしょうから、「私はこういうことはあまり好きじゃなくて、こういうのは好きです」ってはっきりしておいたほうが、お互いにハッピーなんじゃないかと思います。

たとえば、立場を逆にして考えてみると、私は相手を喜ばせたくて、みんなの前で相手にお酒をプレゼントしているんだけど、相手は実はお酒が好きじゃなかったとする。相手は何も感想を言わないんだけど、私はまたお酒をプレゼントし続ける。相手は内心、困っているかもしれない。みんなの前でお酒をプレゼントするもんだから、勝手にまわりが「あの人、酒豪なんだって!」と言い出して、私は相手に、自分の知らないところで、迷惑かけてしまうかもしれない。それなのに、お酒をプレゼントし続けるのは、私にとってもハッピーなことじゃない。相手が本当にしてもらいたいことをしたいと思う。

FB本体のタイムラインをあんまり見ていないことについて書いたのは、私の投稿に「いいね」を押してくれているのに、押してくれている人たちの投稿をあんまり見れていなくて「いいね」を押しにいけていないのが申し訳なく感じていたからです。

ときどき、「どうしているかなぁ?」と見せてもらいに行っているんですが、リアルタイムで最新情報は追っていなくて、時間と心に余裕があるときだけなので、「いいね」を押したいのがあっても、だいぶ時間が開きすぎていて、「今頃見に来たの?恐っ!」と思われそうでちょっと押せないのです。

ツイッターだと、気になる人のページに飛んで、一覧で投稿を見せてもらうのは、ブログを見に行っている感じと変わらないというか、そんなに気まずい感じがしないんだけど、フェイスブックのプロフィールページでタイムラインを見せてもらうのは、勝手に相手の部屋におじゃまして、アルバムとか日記をパラパラ見ているような感覚で、なんだか気まずい感じがするのはなぜなのだろう…。

FB本体のタイムラインは、前も書いたんですが、ちょっと苦手です。いろんな人が、いろんな場所にいて、いろんな気分で投稿したものが、一気に目の前に並ぶから、頭がごった煮状態になります。一人は動物園に行き、一人はデモへ行き、また別な人はステーキを食べ、また別な人はケーキを食べ、また別な人は温泉へ行き、また別な人は重大なニュースに危機感を募らせていて、また別な人は自分の子どもの写真を投稿している…。こんなのがずらーっとタイムラインにごちゃまぜに並んだら、すごく気持ちが混乱する。私が関心を引かれるのは、今挙げたような例のなかでだったら、デモや重大なニュースだけど、他の人のも見ないのは差をつけてしまって申し訳ないような感じになる。かと言って、順番に見ていくと、感情が両極に振れまくってとてもおかしな状態になる。

それに、「いいね」を押すことではほかのリスクも感じます。たとえば、仕事がまだできていないのに「いいね」を押したのを仕事関係の人に発見されたら気まずかったり、お誘いをもらっているけどまだじっくり読む時間が取れなくて保留しているものがあるのに、お誘いをくれた人に他の人のものへ「いいね」を押しているのがわかられると、お誘いをくれた人が不愉快を感じるんじゃないかと思ったり、tom-tomはAさんには「いいね」を押しているのに、自分には押してくれないとか思う人も出てくるんじゃないかと思うと、結局、全部「いいね」を押さなくちゃいけなくなったり、でも私にも信条があるから「いいね」が押せないものもあるんだけど(化学物質とか社会毒を摂取している投稿には「いいね」は押せないとか)、それを「tom-tomは自分の何が気に入らないんだ!」とか思う人もいるんじゃないか…とか、いろいろ考えてしまって、苦しくなる。はー、いいねってホント難しいものですね…。考えすぎねって言われますけども…。

フェイスブック自体がなんか苦手なんですよね。国会中継みたいな感じというか…。私の発言や質疑応答がすべて、いろいろな関係性の人たちに公開されていて、リアルタイムで見ている人がいるかもしれないというのも、なーんか、落ち着かない。個人に関する情報は、この人は大丈夫、と思う人には伝えているけど、この人はまだちょっとよくわからないと思う人には、まだ伝えていない部分や、見せていない面もある。それが全部公開されちゃう。検索がしにくいのも国会中継に似ていて、たまたま目に入った一部の投稿で、私のイメージが決まってしまう。逆も然りで、私がたまたま目にした相手の投稿や質疑応答で、その人のイメージができてきてしまうのも恐いなぁと思う。直接会っているときは全然嫌な感じがしないのに、むしろ大好きなのに、直接会うときと、フェイスブック上のキャラが一致しなくてその違和感に苦しくなったり。だから、なるべく見ないようになりました…。そういえば、相方は、「親類から一回会っただけの人まで、いろんな関係性の人たちがみんな参加している飲み会」、「だれにでも個展スペースが与えられていて、それが一挙に集まっている出入り自由の展覧会」と例えたことがあったなぁ。

もともとそんなに社交が得意じゃないし、リアルでのコミュニケーションで大満足です。みんなが見ているところでのコミュニケーションって、やっぱり浅くなるけど、手紙とかメールとか、直接会って話したりとかだと、もっと濃いコミュニケーションができる。それに、なあーんか、フェイスブックでアップデートを追っていると、直接会ったときに、近況を話さなかったりもする。「投稿もしたんだけど」と前置きされた上で話されたりとか、「(投稿を)見てないの?」と言われたことも…。

「私はこうやって使う方針です」とはっきりさせたら、だいぶ気が楽になりました。私はこうしたい、ってちゃんと声を上げるのって、結構大事なことかもしれないなと思いました。



20160406

春のもどかしさ。

【旧暦如月廿九日 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

このところ、なんやかんやとやることがいっぱい。お花見にも行きたいし、読みたい本も山のようにある。考えを整理したいことも、もっと知りたいことも、お伝えしたいこともたくさんある。

「春眠、あかつきを覚えず」の言葉の通り、寝ても寝ても眠くて、身体がやりたいことに追いつかない。何をするにも、取りかかるまで気が重く、のんびり、ぼーっとしたくなる。寒さの疲れなのか、それとも、春の毒出しなのか、はたまた、季節の変わり目で春に身体が対応しようとしているためなのか。

こういうとき、気持ちが焦ってくる。気持ちだけは、あれもしたい、これもしたい。でも、身体が追いつかない。もどかしくて自分が嫌になることもある。

昔だったら、栄養ドリンクで無理矢理身体を動かして、コーヒーをガパガパ飲んで目を覚まして身体をこき使っていたけれど、結局、後になってがたっと体調を崩したり、胃を痛めたりして、身体を元に戻すのにだいぶ時間がかかってしまうものだった。

無理をするよりも、身体の声を聞いて、休みたいときは休んでおいたほうが、長い目で見れば、有効に使える時間は長くなるのかもしれない。ぼーっとしているときも、休んでいるときも、新しい私を創るために、身体さんはフル稼働で働いてくれているんだそうだ。

うーん、それにしてももどかしい。今しか見られない景色、今まさに咲こうとしている花々、うららかな日差しとひんやりとした風。

最近は特に、見たかった映画を何本か連続で見れたこともあって、伝えたいこと、整理したいこと、考えたいこともたくさんある。仕事でも、偶然いろいろなおもしろいこと、重要なことを知って、早く書きたいんだけど、おもしろい仕事がどんどんやってきて、締め切りのあるものから順にやるので精一杯。はぁ、今日ももう夜になってしまったと、もどかしい。

昔はもっと虚弱で、月に1日くらいは寝こむ日があったし、3月と9月には総決算みたいに、半月近くも寝込む時期があった。「それに比べたら、相当ましやで」と相方。うん、それもそうだわ。もどかしく思うということは、もしかしたら、それだけ心も身体も元気になってきた証拠なのかもしれません。

20160405

全部わかってから何か言おうというのでは手遅れになる。

【旧暦如月廿八日 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

先日、「社会のことを考えるのに、どうして専門家である必要があるの? モノ言う凡人で何がわるいの?」というタイトルの記事を書きました。

私は何でもすべてをわかっているわけではありません。いずれは、全部わかるようになって、何を聞かれてもぱっと答えられるようになりたいと思っていますが、いろいろな問題に気がついたのはつい数年前のことですから、まだまだ勉強の途中です。こんなに変化が激しく、情報が溢れている時代にあって、すべてを知るなんて、死ぬまでにもできるのか定かではありません。

ちょっと前までは、全部わからないと意見を言ってはいけないような気がしていました。でも、それでは間に合わないと思うようになりました。今、わかっている範囲で、「これっておかしくない?」って、わかっている範囲で、最善の解決策を考えて、提示していかないと、間に合わないのではないでしょうか。

それに、隅から隅まで全部わかっていなくたって、今ある情報を考え合わせた結果、私はこう思う、というのを明らかにしていれば、もっと情報を持っている人が、補足してくれたり、私の詰めの甘いところを明白にしてくれたりして、解決策の提示をより早く、よりよいものにしていくことができます。

今の世の中、「なんか変だよね?」と思っている人はきっと結構いるのではないかと思います。でも、まだ全部はわからないから何も言わない。そういうことでは、結局、確信犯で騙そうとしている人たちに、流されてしまう人が多くなってしまうだけで、何も変わっていかないと思います。

わかるまで何も言わないでいたら、どんどん私の望まない方向に、この世界は突き進んでしまう。

数年前、消費税が増税されるかもしれない、という話が出てきたとき、知人と消費税増税の話題になり、私が「法人税はどんどん下がっているのに、消費税を上げるというのはどうなんだろう?税金は富の再配分のためにあるのに」と言うと、知人は、「法人税を上げてしまったら、海外に企業が逃げてしまって、職がなくなるから困る」と言いました。

私はそのとき、
「もうすでに生産拠点は海外にどんどん出て行っているよね? 法人税下がっても生産拠点は海外から日本には戻ってきてないよね?」

「法人税って本社がある場所でどこの国の税制に従って支払うかが決まるんじゃないの? 本社が海外に移転する日本企業って出てくるんだろうか?」

「カネがあって外国に逃げていける大企業には税金を高くできなくて、カネがないから逃げられない国民には消費税を上げていいって、道理があるんだろうか?」

「企業の内部留保は増えているっていうし、企業は税金もうちょっと払えるんじゃないの? なんで生活の苦しい人からとる税金を上げないといけないの?」

「企業は税金を節約して、貯めて、どうするんだろう? 雇用も増やしてないよね? 企業って何のために存在しているんだろう?」

など、いろいろな疑問を持ちました。

当時、確かに、大手メディアでは知人の発言にあるような論調が時折見られていました。法人税を上げると、国内産業の空洞化が起こり、雇用が危うくなる、と。

私は、まだそのとき、すべてをわかっていないから物を言ってはいけないんじゃないかと思って、これらの疑問を飲み込んでしまいました。

でも、今思えば、聞いてみればよかったと思うんです。もしかしたら、知人は、メディアに疑問を持ったり、自分でももう少し調べてみようかな、考えてみようかな、と思ったりしたかもしれません。

そういう人が増えたら、選挙に行く人も増えるだろうし、自分で考える人も増えると思います。

仮に、私が全部わかって、何を聞かれても怖くない状態になってから意見を言うようになったとして、私に噛みつかれるのが怖くて、私が気に入りそうな意見を持つ人が増えても、最終的な解決にはならないと思います。そういう人たちは、自分で考えて決めているのではなくて、簡単にすごそうな人の意見に流されてしまうので、すごく不安定だからです。

自分で常に考えて決めていく人を増やさないことには、この世の中は根本的には変えられないと思います。今井絵理子さんの会見を読んでも思いましたが、まわりの意見に流されるのではなく、まわりの意見を参考にしながら、自分の頭でよく考えることができなければ、戦争反対が戦争賛成に簡単にすりかわってしまうのです(ちなみに、今井さんが、人柄に感銘を受けて自民党からの立候補を決意したという山東昭子さんという方は、甘利明経済再生担当相の金銭授受疑惑を告発したメディアを「ゲスの極み」と呼んだお方です)。今井さんは、昨年の夏には安保法案に反対するような発言をツイッターでされていたので、まさか、国民の反対を無視して安保法案を強行採決し、平和憲法の解釈改憲もゴリ押しして、アメリカと戦争ができる国に日本を変えようとしている自民党からの立候補を決めてしまうなんて、初めて聞いたときは何かの間違いなんじゃないかと思いました。本当に悲しい驚きでした。

私は、私が言うことをまるごと信じてほしいというのではなくて、私の意見をきっかけにして、自分の頭で考える人が増えてほしいと願っています。まだ勉強途中の私の意見を読んで、まだ考えの足りないところを見抜いて、さらにそこからご自身で考えて、ご自身の意見を形成して、私にも共有してもらえたらいいなぁと思います(攻撃は何も生まないので、ケンカは売られても買いませんが…)。

仮に、私が何もかも知ったとしても、人間であることには変わりがないので、間違うことだってあると思います。そういうときに、私の意見に染まるのではなくて、それぞれ多様な意見を持っている人がいてくれれば、ひどい誤りを犯さずにすむと思います。

わからなくても、今持っている材料のなかで、ベストだと思える答えを出していくのが大事なことだと思っています。全部わかってから、と思っていると、手遅れになります。だって、憲法の根本をわかっていない安倍首相が憲法に手をつけようとしているんですからね…。そして、そうやって今あるなかでベストと思える答えを出していれば、自ずと、足りないデータなり、事実なりがはっきりしてきます。そうして明らかになった、足りないものを補っていく、さらに勉強を重ねていく、その積み重ねで、自分の思考力も、世の中も、だんだんと良くなっていくのだと思います。


20160403

民進党の山尾しおりさんのインタビュー記事のこと。

【旧暦如月廿六日 春分 末候 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)】

最近気になっている民進党の山尾しおりさん。日刊ゲンダイのインタビュー記事がとても読み応えたっぷりだったので、ご紹介したいと思います。

“安倍首相の天敵”山尾議員…無知な総理の改憲論議に異議(日刊ゲンダイ:2016年3月22日)

「天敵」ってね・・・。ふつうに議論してるだけに見えるんだけど、なんでそんな獰猛な動物たちの戦いみたいに表現するんだろうねー、というツッコミはさておき、「国会審議では舌鋒鋭い追及や、ひるまない姿勢が際立つ。しかも理路整然。首相の憲法観の乏しさや無知を浮き彫りにしたのも、「保育園問題」で政府を動かすきっかけをつくったのもこの人だ。」と紹介されています。
(安倍総理は)自分の庇護の下にある女性には紳士だけれど、自分の範疇を超えてくると、ものすごく不安になるんだなということがよくわかりました。(p. 1)
(対等な女性に対しての)その不安がニヤニヤしたり、言い訳をひたすら続けたり、批判してかぶせてきたり、尋常じゃない対応になって表れるんだなと思いました。(p. 1)
いるいる、そういうオッサン…。なんなんやろね、あれ。幸い、仕事関係でおつきあいのある人のなかには対等に接してくれる紳士しかまわりにはいないんだけど、これまで生きてきて遭遇した男性のなかには、tom-tomが知性を見せるとキレてきたり、「お前は女なんだぞ」って言わんばかりな態度だったり(だから何?って感じですが)、目を合わせてくれなくて怖がられたり…。女性活躍なんて言っている首相がこんなんじゃ、女性の地位向上ってほんまはやる気ないんちゃう?って感じがしますが…。

p. 8に「女性活躍って結局掛け声だけだった」というインタビュワーの発言があり、なんと…
来年度予算の女性活躍の大柱のひとつが「トイレの整備」ですよ。(p. 8)
どっひゃーでした(゚д゚)!全くやる気が感じられないですね…。結局はゼネコンさんを儲けさせたいだけなんちゃうん? 

「精神的自由の経済的自由に対する優越的地位」という憲法の基本について山尾さんが質問すると、安倍総理はまともに答えられず、"最後は「クイズは意味がない」と逆ギレ"したらしい…。山尾さんの言うとおり、
憲法の技術的な議論をしようと思っているわけではありませんが、次の参院選で憲法改正を争点にすると言っている総理だから、だったら今の憲法の中核部分は知っていないと困る。(p. 2)
憲法改正を争点にすると言っているのに、憲法のこともロクに知らないことを明らかにしてくれて、本当にありがたいですね。その答弁のシーンは以下の動画に収められています(「精神的自由の経済的自由に対する優越的地位」については、20:15くらいからです)。


【2/15 予算委員会】 山尾志桜里 放送法4条「政治的公平」について安倍総理に質問【完全版】
*こちらの書き起こし(議事録)は、こちら↓
国会会議録検索システム「予算委員会 第12号 平成28年2月15日」
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/190/0018/main.html
(このページに飛んで、最初には最新の議事録が表示されているので、2/15のをクリック→真ん中らへんまでスクロール→「山尾」で検索→該当箇所にたどり着けます。ちょっと使いづらいシステムですが…。どうしてもたどり着けなかった方には、PDFもあります→☆PDF。ただ、画像なので、文字で検索ができません。p. 25の二段目の左くらいに「○山尾委員」とあるところからが始まりです)

国会の中継は、親切な人がYouTubeに乗せてくれていたりしますし、国会のインターネット審議中継のウェブサイトに録画がありますので、好きなときに見ることができます。質問者の名前をクリックすると、質問する議員さんのところまで頭出しもしてくれます。

衆議院
http://www.shugiintv.go.jp/jp/index.php

参議院
http://www.webtv.sangiin.go.jp/webtv/index.php

文字で読みたい方は、以下で該当する会議をクリックすると見られます。
国会会議録検索システム
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/index.htm

さてさて、日刊ゲンダイのインタビューに戻ります。「自民党改憲草案」について、
憲法を知らない政党で憲法を知らない人が書いたんだということが一目瞭然。例えば「個人の尊厳」ですが、自民党改憲草案では、個人を全部、人あるいは人間に置き換えて、個を消している。人間であるための最低限の権利は保障するけれども、人と違う個人であるという最低限の権利は保障しない。個の抹殺です。憲法を少しでも学んだことのある者なら本当にびっくりします。(p. 3)
個が消されているって本当に恐ろしいですね。プロトタイプに当てはまる人間でないと尊厳が大事にされないっていうこと。私なんか確実に人でなし扱いでしょうね・・・。抹殺されるか、プロトタイプにはまって生き延びるか…。プロトタイプにはまらないと生きられない世の中っていうのも苦しいよなー。

高市総務相が放送法について「停波もあり得る」と発言したことについては、2つの問題点を指摘されています。
ひとつは政治的公平を判断するのが政治家では本来ダメだろうということ。もうひとつは、ひとつの番組だけで政治的公平性がないと判断されれば停波し得るとしたこと。(p. 3)
一つめのポイントについては、政治家が「自分に都合のわるいことを放送したら電波停止するよ」ってことですから、それは本来だめですよね…。ひとつの番組だけで電波停止されてしまうんだったら、放送局に務める人間だったら、たいていの人は、かなり慎重になってしまって、政治家に都合のわるいことは言えなくなっちゃうだろうなぁ。私だったら、電波止められても、他の方法で本当のことを言い続けますが。今のうちに、民主的な方法で、止めさせないようにするのが賢明ですね。

電波停止の事例について、高市氏は「テロを呼びかけるような放送」と突拍子もない事例を上げられたそうですが、テロは犯罪なんだから、電波停止ではなくて、「現行犯逮捕」だと山尾さんは指摘。そのとおりだと思います…。なんで電波停止なの? 
結局、問題があるから解決しなきゃいけないのではなく、発言が先にあって、事案を後付けするから、おかしな話になってしまう。(p. 4)
これもよくあるー。正当な理由はないんだけど、何がなんでもやりたい、だから理由と事例を無理矢理あとづけする。なんか、こうやって見ていくと、ある意味、この人たちは、やっぱり日本人の代表なのかも、と思えてしまう・・・。

思惑が先にあって、理由や事例は後付けする、というのは、改憲にも当てはまるという。
憲法改正もそうだと思うんです。最初は96条改正だった。しかし、国民的な常識の中で潰れ、今度は緊急事態条項だと。(p. 4)
インタビュワーの「参院予算委で首相はついに「私の在任中に憲法改正をしたい」と明言しました。」に対して、山尾さんは次のように語られています。
憲法に無知な総理が自己実現のために憲法に手をつけようとしているというこの国の不幸な状況を、次の参院選で脱しなければならないという思いを強くしています。(p. 5)
池上彰さんがかつて、テレビ東京の選挙特番で、安倍首相が解散総選挙をしたのは、おじいちゃんコンプレックスなんじゃないの?と切り込んでいましたが(参照)、改憲も安倍首相の自己実現のためなのか…。こんなの、許せますか? 

保育園問題も「保育園落ちたの私だ」デモ以来、手のひらを返したように、「待機児童問題に取り組む」と言い出していますが、選挙対策だろうなぁと私なんかは勘ぐってしまいます。山尾さんは次のように述べています。
安倍政権は政策の“打ち上げ花火”がうまいので、保育園問題についても、今後、本腰を入れて取り組むのかどうか、チェックする必要があります。(p. 7)
一昨年の秋に女性活躍を打ち上げ、解散をした時に、総理の中の女性活躍の役割は終わった。だから、1億総活躍に衣替えして、今回の女性活躍の予算の柱がトイレになってしまった。(p. 8)
こんなふうにわかりやすい言葉で、国会で何が話し合われているのかを伝えてくださる議員さんがいてとてもありがたいなあと思いました。山尾さんは、社会問題としっかりと向き合って、国民の関心事はこれだろうなというのもよく考えて質疑してくれていて、勇敢に理路整然と議論してくださっていて、今までの議員さんのイメージとちょっと違う。国民の代弁者という感じがします。 こんな議員さんがいてくれたということが知れて、とてもうれしくなりました。

最後に、この国会の映像を見ていて、山尾さんが最後に示された報道の自由度のフリップをご紹介します。

日本の「報道の自由度ランキング*」の推移
答弁の動画より
*詳しくはコチラ→マガジン9「報道の自由度61位」の国で…
民主党政権時代には、日本の報道の自由度は11位にまで復活しましたが、現在は61位にまで転落しています。山尾さんは次のように締めくくられました。
 最後に、報道の自由度ランキングを御紹介して終わりたいと思います。
 
 自民党時代、報道の自由は、四十二位、三十七位、五十一位、三十七位、二十九位。そして、民主党政権になって、メディアに対して大変オープンになり、十一位まで上がりました。現在の安倍政権は六十一位、最悪のランキングです。憲法と人権に関する総理の認識を聞くと、ある意味当然の結果ではないかと私は思いました。
私も、これだけ憲法と人権のことがわかっていない、「言論の自由を大切にする」とは口先だけの安倍首相だからこそ、こんな状態になっているんだということは、深くうなずけると思いました。

また、このときの会議で、玉木雄一郎議員とのやりとりのなかで、高市総務大臣が「憲法9条(注:平和憲法のことですね)改正に反対する政治的見解を支持する内容を相当の期間にわたり繰り返して放送した場合にも、極めて限定的な状況のみという留保をつけながら、電波停止の可能性を否定しませんでした」とあります。

安倍首相の見解を、さらに山尾さんが追及すると、安倍首相もこの可能性を否定しませんでした。安倍さんのは、何を言っているのかよくわからない、ふにゃふにゃした回答でしたが、「それはない」とははっきり言わず、山尾さんは「総理も、憲法九条改正に反対する政治的見解が相当の期間繰り返し報道された場合に、この電波停止の適用があることをお認めになられた。」と事実上認めていると追及しています。

国会の議事録は、初めてじっくりと読みましたが、私には、与党側はふにゃふにゃふにゃふにゃ、詭弁を並べ立てて逃げているようにしか見えませんでした。なんとなく関係のあるような感じがすることを言っているような感じもするんですが、よくよく咀嚼すると、「それって噛み合ってなくない?」「とりあえず言ってるだけだよね?」「内実が伴っていないのでは?」など疑問に思うことがたくさん出てきました。

山尾さんの言っていることは、映像でぱっと聞いただけでもよく理解できるんですが、与党側の答弁は、さっぱり何を言っているのかわからない。私の頭が鈍いのかもしれないが…。山尾さんの切り替えしを読むと、「あ、それならわかる!」という感じ。安倍首相に聞いているのに、高市さんが出てきてしゃべるのも、入れ知恵をしてくれる人からレクチャーを受ける時間稼ぎにしか見えない。

国会って議論をするところだと思っていたんだけど、全然議論になっていなくて、なんか雰囲気でオッサンたちがヤジ飛ばしたり、拍手したり、ダサいなーと思った。だれかわかんないから何言ってもいいみたいな、そういうのダサすぎない? 議論の場なんだから、山尾さんみたいに、ちゃんと最後まで相手の話をよく聞いた上で、手を挙げて発言すべきなんじゃないのかなぁと思った。民進党の全員を信頼しているわけではないけど、山尾さんは、こんなふにゃふにゃしたよくわからない答弁のなかから主張をすくい上げて追求していて、すごいなーと思いました。

20160402

社会のことを考えるのに、どうして専門家である必要があるの? モノ言う凡人で何がわるいの?

【旧暦如月廿五日 春分 末候 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)】

政治のことや社会のことについて関心を持って、本やドキュメンタリー作品、ウェブなどで情報を集めたり、何が起こっているのかを伝えたり、意見を持ったり、どうしたらいいのかを考えたり、提案したりしていると、よく言われるのが、「政治家になれば?」「ジャーナリストにでもなれば?」「ルポライターになれば?」など。

SEALDs KANSAIの大澤茉実さんのスピーチの書き起こし(何度読んでも涙が出る)に、大澤さんも「政治家にならんの?」と言われるとありました。それに対して大澤さんは次のように考えを語られています。
私は政治家になんかなりたくない。

でも国会で寝ている議員よりも、ずっと真剣に政治のことを考えている自信があります。

それは、かなえたい夢と、生きていきたい未来があるからです。

毎日、命を懸命に生きているからです。

そして、そのささやかな夢や、生活や命を守るのも、殺すのも、まぎれもなく政治だからです。

おしどりマコケンポータル 2015-09-19「やべ~勢いですげー盛り上がるデモクラシー」
ほんとにその通りだと思う。政治次第で、自分のやりたいことの実現のしやすさがぜんぜん違ってきます。

私に「政治家になれば?」「ジャーナリストやんないの?」などとおっしゃる方には、中には純粋に期待しておっしゃってくれる方もいるのですが、冷やかしというか、裏には「凡人のくせに。専門家にまかせておけよ」っていう思いを持っておっしゃる方もいます。

専門家に任せていたら、こんな時代になりました。

貧困が広がり、原発は爆発して汚染が続き、アメリカと一緒に戦争をできる国づくりに向けてまっしぐら、沖縄の人々に対する人権侵害、挙げればキリがありませんが、政治状況を見ると、ため息しか出ません。

凡人が社会のことに関心をもって何が悪いのでしょう? 民主主義って、国民が主権者なんだから、ふつうの人がみんな主権者なんです。主権者っていうことは、主権がある、つまり、権利がある。権利があるっていうことは、責任もある。

世の中のことについて常に関心を持って、何を実現したいのかをよく考えて、それをどうやって実現していくのかをよく考えて、意見を持ち、投票や働きかけなどの具体的な行動に移したり、発信したりすることは、ふつうの人がなにも専門家にならなくたって、ふつうの人のままでやっていいことだし、それは、むしろ責務なんじゃないかと私は思います。

ふつうの人が専門家くらい知識があったっておかしくないと思うんです。真剣に政治のことを考えてもおかしくないと思うんです。それを、お金をもらっているかいないかで、お金をもらって職業としてやっている人を「専門家」と呼び、もらっていない人を「専門家ぶってるバカなヤツ」って見下げるのも、本質で人を見ることができない人のすることだと思う。

職業としてやっている人たちは、ともすれば、お金をもらっているクライアントの耳の痛いことは言えなくなったり、恩義があるからと目がくもってしまったり、ということもあると思います。真実を知りたい一心で、情報収集や発信をしている「専門家くらい知識が豊富なふつうの人」が増えたら、世の中はぐんと変わるんじゃないのかなぁ。

それとも、本当は主権者である国民ならだれでもやって然るべきことだっていう認識が薄々あるけど、自分はやれていない後ろめたさからそういうことを言ってくるんでしょうか。やりたかったらやればいいし、やりたくないんだったら、あるいは、やれない事情があるんだったら、やっている人の足をひっぱったり、気持ちを落とすようなことを言うんじゃなくて、むしろ応援したほうがいいんじゃないのかなぁ。

そんなことを言う人たちに、たまに折れそうになるけど、そんなことでめげていたら、世の中は変わらない。凹んだりもするけど、何度でも立ち上がろうと思うし、凹んで立ち上がるたびに強くなれる気がする。そう思ったら、嫌なこと言ってくる人も、ちょっとはありがたく思えるかもしれない。

どうせいつか死ぬんだから、そんなことでびびって、権力におとなしく服従して、おとなしくニコニコして、何もわかっていない「ふつうの人」を演じるより、次の世代によりよい地球を残すために、もっと生きやすい世の中を残すために、傷ついても、やれることはやって死んでいきたい。世の中が変わるのには時間がかかるから、すぐに死んじゃったりするようなやり方ではいけないけど、しぶとく長く生きて、世の中をよりよくしていくための行動をより長くできるように、知恵と工夫が必要だとも思います。そもそも、世の中を自分次第で変えられるって思ったら、まだやれることはあるって思ったら、黙って服従してるより、ずっと生きるのが楽しいんです。

よく、個人にできることは限られているから、大きいところにはもっとがんばってもらいたい、っていうような発言を目にします。大きいところの影響は大きいかもしれないけど、大きいところに動いてもらうために、自分にも何かできることはある。他人任せの姿勢じゃなくて、それを実現するには「どんなやり方があるだろう?」「自分には何ができるんだろう?」って、一歩も二歩も踏み込んで、考え抜いてみたほうが、あきらめるよりずっとおもしろいです。

それに、「がんばって」ってどうがんばっていいかわかんないし、がんばりたいけどがんばれない事情もあるのかもしれない。何を期待しているのか、それを実現するためには何が必要なのか、もう少し考えてみると、希望が湧いてきたりもします。ほかの人とディスカッションしたら、いいアイデアが生まれたりもします。初めて関心を持ってくれる人もいます。知らないだけで、知ったらできることはしたいっていう善良な人は結構多いんじゃないのかなぁと思います。ふつうの人が声を上げたら、世の中は大きく変わると私は思います。

最後に、野党5党が共同で提出した「保育士の給料を月5万円上げる」法案(正式名称は「保育士等処遇改善法案」)の筆頭提出者の山尾しおりさんの言葉を紹介します。山尾さんは、法案提出時に、議員会館で野党議員の帰りを待っていた母親や保育士たちに次のように語りました。
「ふつうの人が声をあげれば政治が動く」。山尾議員は、待機児童を抱える父母たちの悲鳴が世論を動かしたことを称えた。(田中龍作ジャーナル2016年3月24日「「日本死ね」から1ヵ月 保育士給与5万円UP法案、提出」
私はこれからも「ただの人」として、モノ言う凡人として、世の中のことをよく見て、勉強して、個人が自分らしく人間らしく生きられる、すべての生き物たちが平和に暮らせる地球を創るにはどうしたらいいのか、考え続けていきたいと思っています。それには専門家や職業人になる必要など、私には全く感じられないのです。

20160401

バーニー・サンダースさんの演説中に野生の小鳥が演台に。ほほえましい映像。

【旧暦如月廿四日 春分 末候 雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)】

アメリカの大統領選挙に立候補しているバーニー・サンダースさんのことを以前にも書きましたが、先日、ツイッターを見ていたら、とてもかわいらしい映像が飛び込んできました。

サンダースさんがオレゴン州ポートランドで開かれた支持者との集会で演説していると、小さな鳥さんが演台に飛んできました。鳥さんがきょとんとしてサンダースさんを見つめているのが微笑ましかったです。小さな鳥は警戒心が強いので、こんなに人のそばに寄ってくることはあまりないように思います。弱い者を守りたいという思いや優しさを、野生の鳥は感じとっているのかもしれません。