20160304

素直に謝れない人は自分をまっすぐ見られない人。

【旧暦睦月廿六日 雨水 末候 草木萌動(そうもくめばえいずる)】

素直に謝れない人は結構いるもの。人間は完璧ではないので、勘違いやすれ違いがあったり、悪意がなくても嫌な思いをさせてしまったり、ちょっと魔が差してわるいことをしてしまったり、余裕がなくて失礼なことをしてしまったり、誰にでも間違いはあると思います。

大事なのは、自分の間違いに気がついたときに、きちんと反省をして、必要ならば謝罪をして、次からは気をつけよう、と行動や言動を改められること。これができない人は結構多く、素直に謝ることもできなければ、自分を次の段階へ持っていく努力をすることもできません。

逆ギレして優位に立とうとする人、わだかまりをとかずにしれっとしてる人、形式的に謝ってその場をしのごうとする人、他人に自分の罪をかぶってもらって逃れた気になっている人…。昔は腹も立ちましたが、最近はそうでもなくなりました。

というのは、素直に謝れない人というのは、自分を直視できない人、自分の行いを客観的に見つめることのできない人だということに気がついて、確かな自己肯定感が低い人なんだと思い至ったからです。些細なことでも自分の過ちを認めたら、ただでさえ低い自己肯定感がさらに低くなって苦しいから、実物よりも自分を大きく強く見せようとしてごまかす。確かな自己肯定感がないってものすごくかわいそうなことです。それに気がついたら、怒りよりも、悲しみ、この人はどうしたら自分に自信が持てるのだろう、と心が痛むようになりました。

私も10代の頃は自己肯定感がとても低くて、すごく苦しかったです。自分が嫌いだったし、生まれてこなければよかったと思うこともありました。誰の役にも立っていないように思えたり、自分の能力の低さに悩んだり。自分のダメさ加減に耐えかねて、暗くなって傷を舐めあえるようなところに慰めを求めたり。そういう時期があったので、若干ですが、その苦しさがわかります。

自分の能力はそんなに変わっていないけど、今は自己肯定感が高まって、あの苦しみはなくなりました。これは相方のおかげです。

勉強を教えてくれるとか、予習や授業のノートを貸してくれるとか、優しい(というのは聞こえのいい言葉で、本質的には何でも言うことをきいてくれる)からとか、そういうメリットじゃなくて、私という人間自体がいいと思って近づいてきて、ずっと一緒にいようとしたのは相方が初めてだったと思います。特別に美人なわけでも、スタイルがいいわけでもないので、男のステータスを飾るような交際相手にもなりえません。それでも、私という人間に興味を持ってくれた人がいたというのは大きなことでした。

相方と出会って、自分についてたくさん話を聞いてもらって、やっと心が開ける相手ができた!と思いきや、ケンカもいっぱいして、開いた心にボコボコ爆弾が落ちてきて傷つきまくり、という段階を経て、それでも、ケンカをしていくなかで、本音でぶつかりあっても何があっても結構大丈夫というホームベースができてきました。ホームベースというのは、たとえ他の誰かに攻撃されたり、嫌なことを言われたりしても、この人は自分のことを一番よく理解してくれている、と安心して戻ってこれる場所のことです。そのうち、自分に戻れる場所が心の中にできて、たとえ相方がわかってくれなくても、自分が自分をよくわかっている、自分がいいと思えば誰が何を言おうとそれでいい、と思えるようになり、相方の補助輪を外せるようになりました。

素直に謝れない人=自分を直視できない人=自己肯定感が低い人というのは、こういう感覚を持っていないし、私にとっての相方みたいな人間がまわりにいない、下手をすれば、まわりは自分を見下げようとしたり、競争相手にしてくる人たちばかりという環境に身をおいている人かもしれません。そう考えると、この自己肯定感がないという苦しみだけでも苦しいのに、人間関係においてもそんな苦しい思いをしているかもしれません。なにも私が怒って罰を下さなくても十分なくらい、すでに罰を受けているなぁ、と気の毒に思います。

そういう人たちに、救いの手を差し伸べなさい、と言う人もいるかもしれませんが、私にはできません。そういう人たちの対応に耐えられるほど、まだ心が強くなっていないし、自分がしたくてしている、という感覚ではなくて、「やってあげている」と思ってしまいそうで怖いです。また、今は自分の表現や暮らしのクリエイション、自分の世界を創ることで手一杯で、時間がもったいないと感じます。今の自分の段階では、そういう人たちを支えるような活動をすることは、無責任に思います。

今の自分にできることは、そうした人たちに怒りの炎を向けずに、慈悲の心を持つように心がけて接し、相手が自分自身を愛せるように祈りながら、そっと見守ることくらいです。怒らなくなっただけでも、自分のなかでは進歩かなと思っています。もしまた謝らない人に腹が立つことがあったら、この事実を思い出して、自分のことに集中しようと思います。何にも縛られずに、自分のことに集中していいものを生み出していく。そうすることによって、私が自分を肯定して自由に生きる姿を見て、自分も自分を愛して、自分を自由に生きていいんだという希望が与えられるようになれたらいいなぁと思っています。