20150621

我の拡張

【旧暦皐月六日 芒種 梅子黄(うめのこきばむ)】

ああしろ、こうしろ、と、相手の考えや状況、背景、事情を聞かずに、指図をする人がいる。私はそれをしてほしくないと言っているのに、「私が○○してやる」としつこく親切の押し売りをしてくる人がいる。

こういう人に困っている話をすると、それは私への「愛」だと、だから「感謝しろ」とよく言われる。言われるたび、「そうかなぁ?」と違和感を感じてしまう。

「愛」とは違う感じがして、どちらかと言うと「征服欲」に似ている気がするが、「愛」ではないと言い切れなくて、ずーっとモヤモヤしていたら、しばらく経ったある日、ふと「我(ガ=ego/self)の拡張」という文字が頭の中に浮かんできて、「ああ、そうか!」とすっきりした。

「我の拡張」と「愛」とは明確に区別しなければならない。

「愛」が何なのか、まだすべてがわかったわけではないが、少なくとも「愛」ならば、相手の自由を侵すものではない。相手の思考の自由と行動の自由を押さえつけたり、妨害したり、萎縮させたりするものではない。そうでなければ「我の拡張」である。

「我の拡張」とは何か。自分が自分の意志によって好きにできる領域を「我」と定義するならば、その領域を他者の「我」の範囲にまで拡張することを、私は「我の拡張」と考える。自分の「我」を大切にしたいのと同様に、相手にも「我」がある。自分の「我」、すなわち領域を大切にされたいのと同様に、相手も相手の領域を大切にしてもらいたいと考えている。これを侵す過度の親切、助言、忠言、命令は「我の拡張」でしかない。

具体例を一つ挙げると、私に法律上の結婚をして相方の苗字に変えろと言ってきた人があった。彼は初対面の人間で失礼極まりない話なのだが、私は自分の苗字が好きであるし、戸籍の名前と仕事の名前が異なるのは仕事上ややこしいし、現状の法律婚という制度には満足がいかないし、どちらの両親もそれで納得しているし、変えるつもりはないと言った。すると、彼は相方に矛先を変え、それなら相方が私の苗字に変えろと言った。私が自分の苗字が好きで変えたくないのと同様に、相方も自分の苗字が好きであるから、自分がしたくないことを相方にさせる道理はない。私は彼にそう言ったのだが、入籍時に新しい苗字を作った知人の例を引き合いに出して、同一の苗字にすべきだと言い張り、そう思う根拠を述べなかった。

私の名前というのは、私の「我」の領域に属するものなので、わかりやすい例だと思う。彼は「夫婦が同じ苗字を名乗ること」をよいものと思っている。根拠はあるのかないのかわからない。彼がよいものと考えるものは彼の「我」の領域に属するものである。これを私の領域に拡張して、私の名前を変えさせようとしたのである。これは「我の拡張」にほかならない。

これがもし、「愛」に基づいた助言であれば、例えば、事実婚にしていて困ったことが起こった人の事例など、私が持っていないかもしれない判断材料を与え、判断は私に任せるはずである。我の領域を明確に認識し、言い換えれば、あくまでも決める権限があるのは「私」であるという認識があり、私を納得させるような、私が行動を変える気になるような、根拠や理由、それを支える事例や事実を提示するのが、「愛」に基づいた助言である。

助言に当っては、領域を明確に認識しておかなければならない。私はこう考える、あなたはこう考える、違っていてもそれでよい。一つに統一する必要はない。どちらかが正しいと決める必要もない。同じ行動をとらなければならない場合など、例外もあるだろうが、基本的には、お互いの違いを認め合うことができればそれでよいのだと思う。(余談だが、Mr. Childrenの「掌」にもこのことが歌われている部分があり、辛いときはこの曲を聞く)

我の拡張は、同族意識にも見受けられることがある。自分が属している集団、自分が親しみを持つ人間、自分がよしとするもの、これらを他人に認めさせようとしたり、これらと異なる考え方や意見を悪いものと決めつけて合わせさせようとしたり、といったことである。

先日、おもしろいことをしている知人の話をある人に紹介する機会があった。彼女は似たようなことをしていると、彼女の友人の話をした。私はその素晴らしさを認めた上で、彼女の友人の今後の参考になればという気持ちもあり、知人の具体的な取り組みを紹介した。すると彼女は、私の知人の良い点には全く興味を示さず、自分の友人のほうが、私の知人よりもいかに優れているかを滔々と話し始めた。終いには「絶対に私の友だちのほうがおもしろい、なんでそう思わないの?」と言うのだった。

これは、彼女の「我」の領域を、彼女の友人にまで拡張した事例である。自分が同族意識を感じている人物を、私に認めさせたいというその気持ちは、自分が認められたいと思うのと同程度になっていて、自分と友人の領域が統合されている感じがした。問題なのは、彼女がその友人の領域に自分の「我」の境界線を重ねていても、その友人が彼女と領域を同じようには感じていない可能性があることだ。そんなふうにされたら、その友人自身は迷惑を感じる場合もあるだろう。なかには「自分はこんなに友人のことを賞賛しているのに、彼女は私のことを私ほどは賞賛してくれない!」と怒る人もいて、二者間での我の領域のズレやひずみがこうした形で生じるのだと思う。

彼女の場合は、自分がひいきにしている店や、続けている習慣、食べ物の好みなどにも、我を拡張しているようで、彼女が好きそうな店を紹介しても、関心のありそうな健康や食事の話題を提示しても、先の知人に対してと同じように、いかに自分の知っているもののほうが優れているかを語るので興味深かった。彼女の好きなものを「知ってる?」と聞かれて、私が「知らない」と答えると、「なんで知らないの!信じられない!」と怒られたのにも仰天した。

自分が親しみを感じる人やものを他人にも同じように認めさせたいという欲求を、その人が親しみを感じている人やものに対する「愛」であると主張する人もいる。しかし、これは全く別のものである。所有欲求や征服欲求に近いものであって、「愛」ではなく、「我の拡張」である。あるいは、自分がいいと思うものを相手にも知ってもらいたいという相手への「愛」であると主張する人もいる。だが、もしこれが「愛」であれば、自分が良いと思っていること、大切に思っていることを知らせるのみで、相手に認めさせる、相手の行動を変えるように指図することまではしないはずだ。

我の拡張をしてくる相手が、自分の領域を侵すのを許してはならない。「愛」と勘違いをして受け入れると、どんどんアイデンティティを蝕まれる。自分を通すことが、信念を通すことができなくなってくる。自分がどんどんわからなくなっていく。エネルギーを吸い取られて、しぼんでいってしまう。「自己」もしくは「個」を失う恐れがある。もちろん、逆も然りで、助言や手助けをするときには、自分も他人の領域にまで我を拡張してはならない。

「我の拡張」と「愛」は、明確に区別されなければならない。