20140729

機械と人間

洗濯をしていて気づいたこと―そのニ。

機械には機械の得意なこともあるが、だからと言って、人間よりも機械のほうが優れているという考えは幻想だった。人間と機械の優劣を比べるなんて、そもそもばからしいことで、それぞれ違う長所がある、ただそれだけなのかもしれないと思った。

「手洗いの後、心配だからもう一度洗濯機で洗う」
「機械で洗わなくて汚れが落ちるの?」
というようなことを言われることがある。

自分も、何年か前までは、洗濯機のほうが人間よりしっかり洗えると思っていたし、手書きの名刺より印刷された機械文字の名刺のほうがちゃんとしているように見えるとか、上手な手縫いの縫い目をミシンで縫ったみたいに上手だとか、平気で思っていた。

近年は「人間が機械に劣っているなんて、そんなことはないだろう。だって、機械は人間が考え出したものではないか」と思ってきたが、実体験として、機械よりも人間のほうがうまくできた事象に遭ったことがなかった。正確には、遭っていても、気づいていないか、覚えていないのかもしれないが。

私にそのことを体験させてくれた出来事は先日起こった。冬物のキルティングジャケットを、今年は初めて手で洗った。洗濯機がないからだ。かれこれ6年ほど着ていて、毎年洗濯機で洗っていたが、表面に黒ずみが目立ってきていた。汚れに固形の石けんを塗って軽くもみ洗いしたら、見違えるほどきれいになって新品みたいな色になった。機械で落ちなかった汚れが、手では落ちたのだ。

汚れが落ちた感触もはっきりわかるようになってきた。それはとても微妙な感覚だ。皿洗いをしていての、きゅっきゅっと鳴るあの感覚と似ているかもしれない。洗濯機で洗っていたころは、きれいになったかどうか、今思うと確かめてもいなかった。手洗いに疑念を示す人たちも、多分、確かめていないのではないだろうか。

きれいになったかどうかは、視覚、嗅覚、手の感触を働かせる。鈍っていた感覚が本来の感度を取り戻しつつあるのは、洗濯機をやめてみての思わぬ効果だった。

機械のほうが人間よりも優れているいう潜在的な固定観念は、人間本来の力を衰えさせているのかもしれない。その考え方を出発点にすれば、機械を使うしかない、自分にはできるはずがない、自分は無力だからエライ人が発明したものを使うしかない、エライ人が言うことは間違いないだろう、自分にはわかるわけがないと、無批判に言われたことを受け入れ、自分で考えたり行動したりすることをあきらめてしまう。受け入れた結果がどうなったか、表面的にしか―ともすれば全く―観察しない。

人間には力がある。世の中を良く変えていく力がある。考える頭がある。感じる心がある。工夫してうまくいくまで試行錯誤する根気がある。誰もにすべてが備わっている。道具は確かに便利だ。だが、その道具に本来の力を奪われてはいないか。

私もかつては劣等感がすさまじくて、無力感にさいなまれることはしょっちゅうだった。自分にないものばかりに目が行っていた。誰もに平等に力が備わっているなんて、当時聞かされたとしてもそうは思えなかったのではないだろうか。そうは思えないという人がいたら、少し手を動かしてみたらどうだろう。何か一つ、機械をやめてみて、アナログに戻ってみると、さまざまな発見がある。