20130121

貧乏耳

Tの耳たぶは薄くて小さい。

「お金の貯まらなそうな耳やね。」
「だからピアスはあけやんかったんよ。 これ以上面積狭なったら、ますます貧乏になりそうやろ。」
「ピアスらて、あけやんでええよ。おそろしわ。」

「そやけど昔、ずいぶんピアスはやったやろー。 うちのお母さんもあけたんやけどね、ピアスあけて次の日に交通事故して。 『ピアスあけたら人生変わるってよう言うたもんやなぁ』ってびっくりしてたわ。 入院してる間に穴、ふさがってもたんやけどね、 『またあけるかい?』ってきいたら、 『いや、もう怖いからやめとく』って言うてたわ。」
「そら、もうあけやんほうがええわ。」
「また人生変わってもたらエライことやで。ええほうに変わってくれたらええけどなぁ。」

「怖いわなぁ、耳に穴開けるんやで。」
「高校のとき、ライターで安全ピン消毒してって子もおったわ。たいていはピアッサーでバシってやるらしいわな。しばらく消毒せなあかんのやろ。」
「たいへんやな。痛そうや。」
「目の上から鼻から口から、いろいろおったな。」
「もうその話、やめとこら。心臓痛なってきたわ。手の先、血ぃ引けて冷たなってきた。」

「目の下がふっくらした人は人望が厚いって言うわな。」
「どれどれ、結構ふっくらしてるやん。Mr. N もそんな目ぇしてるわ。」
「リーダータイプやもんな。しっかりしてるし、人望厚いわぁ。あんたもちょっと膨らんでるやん。」
「ぼく昔こんなんと違ったけどな。ふっくらしてきたなぁ。よう笑うようになったからかもな。」
「ほんまやな。昔あんまり笑わんかったわ。笑っとったほうが人集まってくるわなぁ。」
「耳たぶはどうしたらええんやろな。」
「表情の問題と違うしな。遺伝やろか?」
「まぁ、貧乏でも、笑っとって人が集まってきたら、それでええんちゃう?」



ナンバーワンを目指すのをやめてから

何かで一番になることを目指すのではなく、自分が一番ありたい姿を追求していくことを目標にしてから、人生を素直に味わえるようになったと思う。

向上心を失ったのではなく、分析的な自己評価から、統合的な自己評価へと変化した。

自分の能力をたとえば、コミュニケーション能力、作業効率、英語力、文章力、論理思考…などと、分けて切り刻んで、資格試験を受けてみたりして、これは誰にも負けたくない、これは全然だめだからもっとやらなきゃ、と人と比べて、自分を評価していた頃は、恐怖に駆り立てられての努力で苦しかった。

いつしか、自分が楽しんでいるか、人を笑顔にできているか、人として誤ったことをしていないか、
そういうことで自分を見つめるようになった。

今、自分を評価するのは極めてシンプルで、鏡に映った自分がどんな顔をしているかを確かめる。
ぶすっとしていないか、怯えていないか、後ろめたい顔をしていないか。それを感覚的に見て、普段の行いを振り返る。

何かの能力で自分より秀でた人がいると、かつての自分なら、劣等感や負けたくないという衝動に苦しんでいたのだが、今は、喜ばしく思えるようになった。

自分ができないことは、好きなことならできるようになれたらいいけれど、そうじゃないなら無理にできるようになろうとしないで、それが好きで得意な人に任せればいいや。

自分よりよくできる人がいたら、その人を手伝わせてもらったり、応援すればいいや。

そう思えるようになってから、努力も無理にがんばって能力を高めるという感じではなくて、自然にいつのまにか前よりもできるようになっているという感じになってきた。

上手な人を手伝っているうちに、自然に身に付いていることもあれば、もっと人の役に立てるように力をつけたい、と思って学び、喜んでもらえてうれしくて、さらに学びたくなる、ということもある。

かつての分析的な自己評価を悔やんではいない。あの負けん気があったからこそ、集中して努力できたのだと思う。だけどそれを今でも続けていたらきっと、限界がきていただろう。

自分を人間として高めることを楽しみ、優れた能力を持った人との交流を喜べるようになった、この変化を今、とてもうれしく思っている。

20130114

年明けのファーマーズマーケット(後半)

前半からの続きです。

みかんのおいちゃんのお向かいに、
いつも使っている石けんのお店を見つけ、
連れが特に気に入っている髪の生える石けんを買いに行く。
「あれー、いつも一緒の人は?」
「ジムのレッスンに行ってしまって。待たされてるんです。」
連れのことまで覚えてくれていてうれしかった。
楽しみにしていた新製品の香水も並んでいる(化学物質は一切入っていない)。
「こないだ記事で読んだ香水、楽しみにしてました」と言うと、
ひとつひとつ、香りを説明してくれた。
「いつも一緒の人が好きそうなのはこれかなぁ?
  ジンジャーがラストノートに入っているの。
 ジンジャーの入った石けんが好きって行ってたよね?」
連れにも話すとよく覚えてくれていると驚いていた。
「彼氏」とも「だんなさん」ともおっしゃらないところもニクいと思った。
忙しそうになってきたので、とりあえず石けんだけ買い足して退散。
みかんのおいちゃんが向かいから
「ありがとうやで~」と見送ってくれる。

以前、仕事仲間に差し入れを買ったお菓子やさんの女の子を見つけた。
彼女のお菓子には、ファーマーズマーケットで仕入れた食材が入っているものもある。
◯◯さんの生姜、とかわいい字で説明が書いてあり、
生産者さんへの敬意がすばらしいと思う。
「いつもおいしくって、ありがとうございます」と感謝を伝えると、
とびきりの笑顔を見せてくれた。
おいしいって言われるのがうれしい、
なんて純粋な気持ちでお菓子を作っているんだろう。
「おいしい」と直接言えるのも、マーケットのいいところ。

紫花豆。我が家では通称「でっかいごっつい豆」
時間を持て余して、ぶらぶらしていると、
見覚えのあるでっかいごっつい豆を発見。
標高の高いところでしか育たないと聞いた
花豆という珍しい豆だ。
花豆との再会に大喜び。
一人でお店を出していた若いお兄さんに
お金を払うと、
「せっかく買ってくれたから、
りんごチップス食べていってください」
とおっしゃるので、いただきながらおしゃべり。
「花豆見て喜んでるから
 不思議な人だなぁと思って。」
「前にエコプロ展で八ヶ岳の農家さんが
 出店していて、花豆をいただいたんです。
 正月に煮豆にしたらふっくらしておいしくて。
 家族には『でっかいごっつい豆』と呼ばれていました。」
「たぶん、生産者が直接店出してたときですね。」
これまた見覚えのあるトウモロコシ茶が目に入る。
「これ、うちにありますよー、清里に旅行に行ったときに見つけて。」
トウモロコシ茶を買ってきた清里のお店のこともご存知の様子で、
旅行先で出会ったあのお店の男性ともきっと知り合いだろうと思った。
不思議なつながり。
彼も清里から来ていて、トンネル事故があってから、車で来るのは一苦労だという。

しばらくして連れが戻ってきたので、
さっきの香水の香りを試してもらいたくて、
石けんのお店に連れて行く。
対応してくれたのは別の女の人だったが、
一度来ていたことを覚えてくれていた。
「さっき渡すの忘れちゃったねって話していて。また戻ってきてくださってよかったです」
バスソルトのプレゼントをいただいて恐縮する。
連れは、お店の人のお見立て通り、
ジンジャーの入った香水が一番のお気に入りだった。

マーケットに通い始めて半年くらいになる。
初めは食べ物を買いに行っていたのだが、
いつのまにか、人に会うのも楽しみになってきた。
かつて「市(いち)」は人々の交流の中心だったのだろうと思うことがある。
約束するわけでもなく、気が向いたときにふらりと出かけると
よく会う人たちに会うこともある、ゆったりとした出会いの場。
お店の人、お客さん、会うのが楽しみな人がたくさんできてきた。
この調子で行くと日本全国に友だちができるような気がしている。

20130113

年明けのファーマーズマーケット(前半)

今週末は2013年を迎えてから初めてマーケットにでかけた。

まずはいつものお兄さんのところで玄米プレートのランチ。
もっちもちの玄米に、ひじきとれんこんの和え物、
車麩と玉ねぎの香草フライ、蕪の甘酢漬け。
「ごちそうさまでした」。紙皿を返しに行きながら挨拶。
「いつもありがとうございます」。ちょっと照れた感じの笑顔が素敵だった。

紙皿を返しに行く途中で、年末に帰省みやげのシュトーレンを買ったドイツパンのお店を発見。
帰りに寄る。
「こんにちはー!実家にシュトーレンを持って行ったらとても喜ばれました」
「クリスマス限定だったので、今日はないんですよ」
と申し訳なさそうな感じのお兄さん、少しうれしそう。
「これが少し似た感じだと思うんだけど」
レシピに忠実なマイスターが珍しくオリジナルレシピを考案したという
オレンジピールとクリームチーズのたっぷり入った
ラム酒入りのケーキを味見させてくれた。

ここのパンは古代小麦にビール酵母と珍しいパンばかり。
年末に来たときに、どれも天然酵母を25時間かけて
発酵させて作っていると教えてもらった。
まだ昼過ぎなのにすでに在庫は半分ほど。バケットは1本しかない。
「いやぁ、リピーターが来てくださるのはありがたいんですが、
同じものを何個も買っていってしまうものですから…」
毎週出店することにしたとのことなので、
数種類を一斤ずついただいてきた。

その後、ウェブサイトで見て気になっていたお店に直行。
おいしかったら家族に産直を紹介したいと思っていた
愛知県の自然栽培・循環栽培の農家さんがこの日は初出店。
行ってみると野菜は量り売り。
固定種・在来種の野菜は大きさにバラツキが出るので、昔は量り売りがふつうだった。
量り売りということはきっと固定種かなと思い、聞いてみる。
「このお野菜は固定種または在来種ですか?」
ほとんどが固定種で「大根は交配種だけどうまいよ」とのお答え。
雄性不稔のことが気になっていることを伝えると
ご存知の様子でうんうんと頷いて心配をわかってくださった。
「じゃがいもと、さつまいもと…」
いろいろお願いしたら量りの針が振り切れて正確な重さがわからない。
「これで◯◯円でいいですよ」
本当にいいの?と思いつつ、ありがたくいただいた。
「どうもすみません。案内を一枚いただいていいですか?」

「あー!!」前のほうで明るい声がする。
両手を振っていたのはCさんだった。
「お会いできてよかったー!明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」
お互いにまず年始のご挨拶。その後、年末年始のお休みの話、
年賀状の絵の話など、久しぶりのおしゃべりに花が咲く。
Cさんとは不思議な縁で、なぜかいつもマーケットに行くとばったり会う。
しかも同じようなあたりで。
何度かお会いするうちに顔なじみになり、
今ではすっかり仲良くしてもらっている。
初めてお会いしたとき、Cさんは柿をすすめてくれた。
最初はお店の人だと思っていたら、
「ちなみに私はお客さんです」とおっしゃるのでびっくりした。
二回目は野菜を味見させてくれて、そのときはお手伝いでいらしていた。
「今日はお客さん?それともお手伝いですか?」
「今日はお客さん。ゲンさんがちょっとトイレに行きたいって言うから手伝ってたの」
そうか、一人でお店を出していたらトイレに行くのも一苦労だもんなぁ。

Cさんがおともだちのお店を何店か案内してくれた。
「ぽんかん、どうぞ」とCさん。
和歌山県みなべ町のぽんかんを味見させてもらう。一切れが大きい。
「私のお友達」とCさんが紹介してくれる。
「みかん、好き?」おいちゃんが和歌山弁できく。
好きだと答えると、みかんも味見させてくれた。
「すかさず、『おじさんのことは?』ってきかなきゃ」とCさんが冗談を言う。
「そんなん、関東の人には通じやんもん。」
帰ってから連れにこの話をすると、「おいちゃん、ようわかってるわぁ」と笑っていた。
おいちゃんに「連れが和歌山出身で」と言うと、
「えー和歌山?和歌山のどのへん?」うれしそうに乗り出すおいちゃん。
「和歌山市です。」
「ほなら、『~でっしゃろ?』ってよう言わんかい?」
「あんまり聞いたことないけどなぁ。」
「そら、もう東京にだいぶ染まってもたんやわ。」
大笑いした。和歌山の人のひとなつこさが温かい。
もう一つの故郷がなつかしくなった。
小さいかわいいミカンを買うと「ありがとうやで~」とおいちゃん。
「また散財しちゃったね」と心配してくれるCさん。
また連れもいるときにおいちゃんに会いに行こう。
みなべ町にも行ってみたい。

つづく


20130107

だれもが芸術家

小説を書く人でなくても、音楽を作る人でなくても、
絵を描く人でも、彫刻をほる人でも、演劇を作る人でもなくたって、
だれもが芸術家でありうると思うことがある。

芸術とは、はっとさせられるもの、
心をぐっとつかんで離さないものだと
私は思っている。

世間では芸術家とは呼ばれない、
自分でも自分のことを芸術家だとは思っていない人。
そういう人たちのふつうの毎日のなかに
心をつかまれるものを見ることがある。

傘寿を越える女性。
彼女はずっと働きどおしだ。
身体もしんどいだろうにと遠くで暮らす孫が言う。
「おばあちゃんほど、いつまでも苦労してる人ないよ。」
「なあに、泣いても一生、笑っても一生だぁ。」
彼女はいつも気丈に笑っている。

正月、それぞれの暮らしから実家へ集う兄弟。
母親はおいしいものを朝昼晩、せっせと用意する。
一日中、下ごしらえに、買い物に、料理、
片付けの繰り返しで、ゆっくり座る間もない。
食べ盛りの子どもらが母親の分を残さずに
ほとんど食べ尽くしてしまってもニコニコしている。
客人が気の毒になって言う。
「作ったのはお母さんなのに、お母さんの分がちょっとしかないなんて」
母親は笑って答える。
「食べるのに執着ないからええんやで。
 おいしいって食べてくれたらそれが一番うれしいんよ。」

都会の混んだ電車の中。
会社員らしい男性が立ったまま、必死の形相で書物をしている。
やっと前の席が空いて座ると、ほっとした表情で資料を広げ、
書物のスピードを上げる。
次の駅で赤ちゃんを抱っこした女性が乗ってきた。
やっと座れた男性はきっと譲らないだろう、という自分の予想に反して、
男性は「どうぞ」と立った。
女性は最初遠慮したが、男性がもう一度「どうぞ」と言うので、
ありがたそうに席に座った。
しばらくして別の席が空くと、その前に立っていた人は座らなかった。
まわりにいただれもがさっきの男性に遠慮しているかのようだった。
そのうち1人が、「空きましたよ、よかったら」と男性に声をかける。
男性は決まり悪そうにしながらも、でも助かった、という感じで
譲られた席に素直に腰を下ろした。
だれもが自分の世界に没入し、他人には無関心に思える都会の電車。
その中で見られた優しさの連鎖だった。

こういうシーンに出会うと、
どんな芸術作品にもないような感動に満たされる。
そのたびに、人間の人生とは、スケッチブックの一頁一頁、
原稿用紙の一枚一枚のようなものに思えてくる。
生きている姿そのものが心をつかむ。
その意味でだれもが芸術家でありうると思う。
自分も、自分の人生というこの作品を、
妥協なく高めていきたいと願っている。