20160622

「多くの人がツイッターとフェイスブックの「友達」だけが視野にある世界で生きることを選んでいる」にグサリ。

世界2016年4月号に、
世界 2016年 04 月号 [雑誌]

こんな一節がありました。
いま、この国では「知らないものは知らないままでもいいじゃないか」という文化が広がっています。そこに待ったをかけるには、事実をつきつけるしかない。しかし、事実をつきつけることに興味がある人もメディアもどんどん減っています。読者も同じで、多くの人がツイッターとフェイスブックの「友達」だけが視野にある世界で生きることを選んでいる。自分の興味のあるものしか見ない。だから、入り口としてエンタテイメントを置く必要がある。エンタメの最大の役割は、面白いことです。――世界2016年4月号【対談】復興を誰がなしとげるのか 真山 仁 (作家)✕古川美穂 (フリーライター)」より
作家の真山仁さん(被災地を舞台にした『そして、星の輝く夜がくる (講談社文庫)』などを執筆)と、フリーライターの古川美穂さん(著書に『東北ショック・ドクトリン 』、『ギャンブル大国ニッポン (岩波ブックレット) 』などがある)との対談の記事でした。

「事実を突きつけることに興味がある人もどんどん減っている」という部分には、逆の感覚を持っていたんだけど、実際には、社会全体で見たらそうなのかもしれない。

おもしろくないと見てくれない、というのは確かにそうだなー、と思いました。エンタテイメント性を持たせて事実をつきつけるというのは、結構高度な技術だけど、Facebookなどで友人・知人に知ってもらいたいと思ったら、こういうことは身につけていかないといけないな、と思いました。もうわかってる人は、「そうだ、そうだ!」って思ってくれてるんだろうけど、そうでない人たち、本来伝えるべき人たちには、「うるさいな」「うざい」でたぶん終わっちゃってると思う。ミュートされて終わりだろうし。

冒頭の「知らないものは知らないままでもいいじゃないか」の部分には、スピッツの「小さな生き物」の歌詞を思い出しました。
知らないままで過ごせるのなら そのほうがよかったこととか
たくさんあるよ だけどいまだにアホな夢見てる
でも、この曲は、そのままでいいじゃん、ということではなくて、後半ではこういうふうに続いています。
深く掘って埋めても なくせないはずだから
裸の言葉 隠さずさらす そこから始めよう
この曲は、そういう意味を込めて書かれたのかはわかりませんが、私はいつも、この歌を口ずさむたびに、自分は小さな生き物だけど、地球に生きる小さな生き物として、守りたい生き物を守っていくためにできることを小さくてもやっていこう、と勇気をもらっています。ポップに見せかけて、実はロック。エンタテイメント性ってこういうことなのかも。

PVはこちら(Youtubeの公式アカウントspitzclipsより)。



さてさて、話は世界の記事に戻りますが、多くの人の視野が狭くなっているというのはひしひしと感じています。Facebookでつながっている友人・知人が投稿するものに合わせて、自分が投稿する内容やトーンを決めている人も多いように感じます。そういう同調圧力に負けて、私はFacebookから脱落してしまったのですが…。

Facebookを始めたばかりのころ、私なんかよりもずっと前から、社会のことや環境のことにバリバリに関心を持たれていて、知識も私の何倍もあるような人たちが、重要な選挙のときになっても、ネット選挙が解禁されたというのに、なぁんにも書かないので、なんで書かないんだろう?って思って、そのうちの一人に、疑問をぶつけてみたことがありました。答えはもらえなかったけど、なんか、今は、それがわかる自分がいます。

政治や社会のことに関する話題や良記事をシェアしても、反応がものすごく薄い。Facebookはいいね!を押しやすい、食べ物とか旅行やおしゃれなお店、結婚&出産などのおめでたい話題、きれいでかわいいものを載せるところで、そういうまじめな話はブログとかツイッターでやって、っていう空気を感じてしまう。反応なんかなくても重要だからやる!って意気込んでがんばるんだけど、やっぱり苦しくなってきちゃって、こんなんやってって意味あるのかな?って思えてきて、続かなくなってしまいました。

もうひとつは、Facebookって、とってもtime-consuming(時間をとられすぎる)。まだ読めていない読むべき(読みたい)本もたくさん。一つ一つの出来事について、さまざまな方面からの報道を検証するだけでも時間がたくさん欲しい。仕事の合間に、本も読んで、複数のメディアを比較して、自分の考えをまとめてってしていると、Facebookをする時間が残らないんだよなぁ。ブログにはそのまま書けるんだけど、Facebook用にはカスタマイズする必要があるので、そんなに器用にこなせない。

友だちでつながっている人たちが、どのくらい社会や政治のことに関心を持っていて、何を考えているのかがわからない中で、情報提供をすることが果たして効果があるのかどうかがよくわからない。私よりもずっと関心と知識があるのであれば、それは釈迦に説法っていうことになるし、全然関心も知識もないんだったら、わかりやすく噛み砕いて書いたほうがいいだろうし、でも、どっちもたぶん混在しているなかで、どのレベル間で行けばいいのかもわからない。

あー、そういうことだったのかなぁ、って今は、書かない人の気持ちもわかるようになりました。ちょっとそういう自分が情けなくもあり、活動家の人でとても上手に活用されている人もいらっしゃるし、見習いたいなと思うんだけど、小心者の普通の凡人の自分が活動家みたいに書いたら上から目線で変だろうし。

ブログだと、気が向いたときに読んでもらえるし、読みたくなかったり、もう知っていて必要がなければスルーしてもらえるので、ひとまず、やっぱり私はブログで情報発信をしていこうかな、これなら私にもできるかな、という感じがする、と、逃げ腰になったところに、この対談を読んでしまい、「多くの人がツイッターとフェイスブックの「友達」だけが視野にある世界で生きることを選んでいる」がグサリ。うーん、どうしようかなぁと、とても考えさせられています。

今回の参議院選挙で改憲勢力に3分の2取られたら「ジ・エンド」って三宅洋平さんも言っているし、田中龍作さんも「この国は暗黒になります」と言っているほどで、本当に今回の選挙は引き返せるギリッギリの瀬戸際なんだと思っています。だから、苦手でも、打てる手は全部打っていかないといけないよなぁとは思っています。心が折れない範囲で、Facebookもちょっとがんばろうかなぁ、、、寄付や、リアルでの会話で身近な人に伝えること、Facebookが上手な人をいいねやコメントで応援する、などなど、他にもやれることはあるので、自分に合った方策を見つけていこうと思います。選挙は毎回、自分を高める修行だと思う。