20160407

私はこうしたい、ってはっきり言うのは大事かも。フェイスブックの利用方針を投稿したらすっきりしました。

【旧暦弥生朔 清明 初候 玄鳥至(つばめきたる)】

少し前に、フェイスブックが嫌になってきた話を何本か書いて、やめようかどうか悩んだりもしていたんですが、自分なりの利用方針をはっきり書いて投稿したら、なんだかすっきりしました。

自分はこういうふうに使うというのをはっきりさせておくのは、モノと人の主従関係が逆転しがちなこのご時世、結構大事なことなのかもと思いました。私はこれが嫌、こうしてもらいたい、とはっきり言っておけば、声が上げられない多数の人たちの代弁というか、「あ、これ、私は気にならないけど、気になる人もいるかもな」と、ちょっと考えてみてくれる人が増えるかもしれません。

何を書いたかと言うと、私の顔がはっきりわかる写真を無断で不特定多数に投稿しないでもらいたいこと、外部サイトからシェア機能などを使って投稿しているけど、本体のページはあんまり見ていないことなどを書きました。

写真の投稿は、たぶん、親切心でしてくれている人もいると思います。集合写真をメールでデータ添付するような感覚なのかもしれない(過去に、私が写っていた写真を無断で、営業目的も兼ねて投稿していた人もいたので、親切心でしている人ばかりではないんだけど)。それが不特定多数に公開されていることについて、考えが至っていないだけで、悪気はない。でも、嫌なものは嫌だって言っていいと思うんですよね。なるべく配慮は必要だと思うんですが。

相手も嫌な思いをさせようと思ってしているわけでなく、親切心でだと思うので、相手が喜ぶことをしたいと思ってくれている人がほとんどでしょうから、「私はこういうことはあまり好きじゃなくて、こういうのは好きです」ってはっきりしておいたほうが、お互いにハッピーなんじゃないかと思います。

たとえば、立場を逆にして考えてみると、私は相手を喜ばせたくて、みんなの前で相手にお酒をプレゼントしているんだけど、相手は実はお酒が好きじゃなかったとする。相手は何も感想を言わないんだけど、私はまたお酒をプレゼントし続ける。相手は内心、困っているかもしれない。みんなの前でお酒をプレゼントするもんだから、勝手にまわりが「あの人、酒豪なんだって!」と言い出して、私は相手に、自分の知らないところで、迷惑かけてしまうかもしれない。それなのに、お酒をプレゼントし続けるのは、私にとってもハッピーなことじゃない。相手が本当にしてもらいたいことをしたいと思う。

FB本体のタイムラインをあんまり見ていないことについて書いたのは、私の投稿に「いいね」を押してくれているのに、押してくれている人たちの投稿をあんまり見れていなくて「いいね」を押しにいけていないのが申し訳なく感じていたからです。

ときどき、「どうしているかなぁ?」と見せてもらいに行っているんですが、リアルタイムで最新情報は追っていなくて、時間と心に余裕があるときだけなので、「いいね」を押したいのがあっても、だいぶ時間が開きすぎていて、「今頃見に来たの?恐っ!」と思われそうでちょっと押せないのです。

ツイッターだと、気になる人のページに飛んで、一覧で投稿を見せてもらうのは、ブログを見に行っている感じと変わらないというか、そんなに気まずい感じがしないんだけど、フェイスブックのプロフィールページでタイムラインを見せてもらうのは、勝手に相手の部屋におじゃまして、アルバムとか日記をパラパラ見ているような感覚で、なんだか気まずい感じがするのはなぜなのだろう…。

FB本体のタイムラインは、前も書いたんですが、ちょっと苦手です。いろんな人が、いろんな場所にいて、いろんな気分で投稿したものが、一気に目の前に並ぶから、頭がごった煮状態になります。一人は動物園に行き、一人はデモへ行き、また別な人はステーキを食べ、また別な人はケーキを食べ、また別な人は温泉へ行き、また別な人は重大なニュースに危機感を募らせていて、また別な人は自分の子どもの写真を投稿している…。こんなのがずらーっとタイムラインにごちゃまぜに並んだら、すごく気持ちが混乱する。私が関心を引かれるのは、今挙げたような例のなかでだったら、デモや重大なニュースだけど、他の人のも見ないのは差をつけてしまって申し訳ないような感じになる。かと言って、順番に見ていくと、感情が両極に振れまくってとてもおかしな状態になる。

それに、「いいね」を押すことではほかのリスクも感じます。たとえば、仕事がまだできていないのに「いいね」を押したのを仕事関係の人に発見されたら気まずかったり、お誘いをもらっているけどまだじっくり読む時間が取れなくて保留しているものがあるのに、お誘いをくれた人に他の人のものへ「いいね」を押しているのがわかられると、お誘いをくれた人が不愉快を感じるんじゃないかと思ったり、tom-tomはAさんには「いいね」を押しているのに、自分には押してくれないとか思う人も出てくるんじゃないかと思うと、結局、全部「いいね」を押さなくちゃいけなくなったり、でも私にも信条があるから「いいね」が押せないものもあるんだけど(化学物質とか社会毒を摂取している投稿には「いいね」は押せないとか)、それを「tom-tomは自分の何が気に入らないんだ!」とか思う人もいるんじゃないか…とか、いろいろ考えてしまって、苦しくなる。はー、いいねってホント難しいものですね…。考えすぎねって言われますけども…。

フェイスブック自体がなんか苦手なんですよね。国会中継みたいな感じというか…。私の発言や質疑応答がすべて、いろいろな関係性の人たちに公開されていて、リアルタイムで見ている人がいるかもしれないというのも、なーんか、落ち着かない。個人に関する情報は、この人は大丈夫、と思う人には伝えているけど、この人はまだちょっとよくわからないと思う人には、まだ伝えていない部分や、見せていない面もある。それが全部公開されちゃう。検索がしにくいのも国会中継に似ていて、たまたま目に入った一部の投稿で、私のイメージが決まってしまう。逆も然りで、私がたまたま目にした相手の投稿や質疑応答で、その人のイメージができてきてしまうのも恐いなぁと思う。直接会っているときは全然嫌な感じがしないのに、むしろ大好きなのに、直接会うときと、フェイスブック上のキャラが一致しなくてその違和感に苦しくなったり。だから、なるべく見ないようになりました…。そういえば、相方は、「親類から一回会っただけの人まで、いろんな関係性の人たちがみんな参加している飲み会」、「だれにでも個展スペースが与えられていて、それが一挙に集まっている出入り自由の展覧会」と例えたことがあったなぁ。

もともとそんなに社交が得意じゃないし、リアルでのコミュニケーションで大満足です。みんなが見ているところでのコミュニケーションって、やっぱり浅くなるけど、手紙とかメールとか、直接会って話したりとかだと、もっと濃いコミュニケーションができる。それに、なあーんか、フェイスブックでアップデートを追っていると、直接会ったときに、近況を話さなかったりもする。「投稿もしたんだけど」と前置きされた上で話されたりとか、「(投稿を)見てないの?」と言われたことも…。

「私はこうやって使う方針です」とはっきりさせたら、だいぶ気が楽になりました。私はこうしたい、ってちゃんと声を上げるのって、結構大事なことかもしれないなと思いました。