20160202

価値観はなんであれ、結局は人間性

【旧暦師走廿四日 大寒 末候 鶏始乳(にわとりはじめてとやにつく)】

昨日、「敵を増やさない」というタイトルの記事を書きました。リアルでもネットでも、自然系のいろんな人たちを見聞きしてきて、何を知って、それを基に何を実践していようとも、結局は人徳というか、人間的なレベルを上げるのが一番大事なことだと、だんだん思うようになってきました。あと、知性も。

マクロビ(正食、食養とも)に詳しい人の家に用事で呼ばれて行ったとき、贈り物でもらったというお菓子を出してくれました。私たちに出しておきながら、パッケージの製品表示を見て、
「デキストリンって何ー?」
「こんなのもらっても困るー」
と言い出す始末…。

贈ってくれた人(いいものだと思うからくれた)にも失礼だし、お菓子を出した私たちにも失礼だと思うし、食べ物にも失礼だし、いくら自然に優しい食生活に詳しくたって「それ、人間的にどうよ!?」と思った出来事でした。

あと、過去にショッキングなマクロビ歯医者さんの話(*その1その2)を書きましたが、マクロビを魔法か何かだと勘違いしている人もいます。

その歯医者さんいわく、歯の詰め物から滲み出す水銀の毒も玄米を食べていれば排出できるから、水銀使っても問題ないという。――うーん、これをどう思うかは、人それぞれでしょうけれども、完全に排出できるという証明もないわけだし、多少は排出できるかも、くらいなんじゃないのかなぁ。

避けられる毒であれば、なるべく取り込まないのが鉄則だと思います。自分がすべき努力をしていないことを正当化するために、マクロビを利用している感じがして、これも「人間的にどうよ!?」と思った出来事でした・・。

自然食に精通している人が、食べ物を悪者扱いするのを聞くのは悲しいものがあります。大豆バッシングを聞くたびに、「大豆さんがかわいそうやー!」と、牛乳バッシングを聞くたびに、こんな↓「心ある酪農家もいるのに!」と、モヤモヤ(✕100)します。

山地酪農家の中洞正さんの本『幸せな牛からおいしい牛乳


「マクロビな人たちがだんだん苦手になってきた」
と漏らした友人がいました。いわく、
「あれがダメだ、これがダメだって言いまくるからさー。。。  持ち寄りが息苦しくなっちゃって。 全然何も知らない人たちといるとほっとするーε-(´∀`*)」
とのこと。うん、わかる気がする…。

なんかね、たとえば、玄米でも、圧力鍋で炊いたらあかんとか、炊いてから寝かせんといけんとか、水に長時間浸して発芽スイッチオンにしないと毒だとか、品種がどうたらこうたらとか、どんどんどんどん、ものすごーく細部に入り込んでいって、ささいな違いで争っている。

自分の身体さんに聞いて、合うもの合わないもの、人それぞれで取り入れていったらいいと思う。

些細なことで争っているほうがずっと身体に悪いし、おいしいねってみんなでニコニコして、食べ物さんたち、育ててくれた農家さんたちに、ありがとうって感謝して食べたほうが、みんなハッピーでずっと身体にいいと思います。

一番近しい友人たちは、マクロビの知識にも精通しているので、なるべく避けたほうがいい食品も知っていますが、
「いただいたら何でも食べる」
「目の前にきた食べ物はどんなものであっても感謝して食べる。もちろん、身体さんの声は聞かないといけないけど」
と言う人が多いので、私は恵まれていると思います。

食の問題を知らない人たちと食事をするのも大変は大変なのですが、人間的によくできた人たちだと、
「好きなもんは人それぞれやからなー」
「知らんかったけどそうなんやね!なかなか気をつけられんけど・・」
と私が食べない理由をきちんと聞いてくれます。

偏狭なベジタリアンやマクロビストよりも、こういう人たちのほうがよっぽど人間的に優れていると感じます。

食べ物そのものには罪はないし、知らない人にも罪はない。

知っている人が知らない人に思いやりを持って伝えずに、影で偉そうに見下しているほうがよっぽど悪い。自分だって徹底できないことがあるのに、自分の不徹底を棚に上げて、相手の事情も考えず、他人を侮蔑するのも浅ましい。

マクロビやベジタリアンという食のスタイルは、食という行為を通じて地球と身体に愛と調和をもたらすというのが根底にある精神なんじゃないのかな、と実践する者の一人として思うのですが、やれ、あれがダメだ、あれを食べるなんて信じられない、これを使うなんてあの人はダメだね~なんて、そういうことを言って自分のほうが偉くなったような気になるのは、本来の精神の真逆だと感じます。

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