20131018

技術の進化と人間の退化

物が進化するにつれて、人間が退化していないだろうか。
体力も知力も感性も。

エスカレーターという便利なものができて、重い物を持っているときはありがたいし、足の弱い人でも移動がしやすくなった。でも、足の弱くない人間も、そのほとんどが階段ではなくてエスカレーターを使う。電車でも街中でもまともに立つことはおろか、まともに座ることもできない人間がたくさんいる。身体が重くなるくらい贅肉がついている人間もいる。

その筋肉の足りない身体をどうにかしようとスポーツジムに通う人間もいる。ジムに高いお金を払い、電気を使って逆向きの歩く歩道を走ったり歩いたり。そしてまた駅や店ではエスカレーターに乗る。この不合理さに気づかないくらい知力も感性も衰えているのか。体力だけでなく。

知力と感性を衰えさせるテクノロジーの最たるものは、今までテレビだと思ってきたが、スマホと呼ばれる端末が登場して、ますます人間は阿呆になっていないか。ここ東京では、いつでもどこでも大抵の人間が、スマホをスリスリスリしている。四六時中他人の動向を追う。他人のフィルターを通った情報を追い続ける。そんなに他人のことばかりに時間を使い続けて、自分の考えや感覚を醸成できるのか。一つの物事を見聞きしたら、その倍以上の時間をかけて、さまざまな観点から検証し、実験し、自分はどう感じるかを自分の心に聞いてみる。そうしないと自分の考えも感覚も持つことはできず、ただ流されるだけになってしまう。

あるいはゲームかテレビか買い物か。スマホという厄介者は、欲望を掻き立てるものを多彩に搭載し、携帯することができる。テレビもゲーム機も家に置いておけた頃は、外ではだめ、よそでは行儀が悪いと、我慢を諭すことができた。物理的にすることができない状況があれば我慢もできる。我慢の体験が、なくても楽しいに変わって、だんだんと欲望から卒業できたものだが、スマホの場合はどこまでもついてくる。結果、我慢を体得することが難しくなる。いい年をした大人が、血眼になってパチパチパチパチ熱中する姿は興ざめである。しかも殺しのゲームだったりする。殺戮の疑似体験を携帯するなんておぞましい。

上手に使っている人だっているだろう。そういう人はすごいと思う。そういう人がスマホを使うことを否定しているのではない。そうじゃない人があまりにも多すぎやしないか。仕事を素早くこなしたり、メールをささっと返したり、最新のニュースを常に把握したり、情報を効率よく得たりして、仕事のデキるスマートな奴になっているのかもしれないが、歩きながら操作して人にぶつかっても謝らない、電車で降りる人がいてもよけもしない、足の弱い人が目の前に立っていても席も譲らない、携帯電話の使用が禁止されている優先席付近でペースメーカーを付けている人や電磁波過敏症の人が近くにいるかもしれないのにスマホをバンバン使う、他者への思いやりという社会的動物としての感覚があまりにも劣っていないか。歩くときまで前も見ないで画面をスリスリ、まっすぐ歩くことも危険を避けることもできない。それって動物としても能力が低すぎないか。情報で頭ばかりよくなったって、人間としての感性、心が退化したらだめなんじゃないの?スマホで一体何を勉強しているんだ。

スマホはスマートフォン=賢い電話と呼ばれているが、私は余計なものがいっぱいついたおデブフォンだと思っている。この前、店の人にもそう言ったら笑っていた。機種変更に行ったときのこと。9割がスマホで、機種料金もスマホのほうが安かった。店の人に「スマホだと今の携帯電話よりも高くなるんですか?携帯ではネットを使わないのですが」と聞いたら、「バックグラウンドで常にさまざまなアプリが自動で更新をかけているので、ネットは定額(5500円くらい)にしておかないと高くなりすぎるんです」という答えで、「使わないアプリでも?消せないんですか?」と聞くと、「デフォルトがそうなっているので」と言われて呆れて店の人に「それはスマートじゃなくておデブですね」と言ってしまった。店の人も然りという顔で苦笑いだった。

結局、機種代は高くても普通の携帯電話にした。毎月の利用料は二千円台前半。スマホにした場合と比べて五、六千円も浮いている。毎月小旅行に行けるくらいじゃないか。お金はもっと大事なところにまわしたい。携帯なんかよりも。

あんなにいろんなものがついた携帯できるディバイスを、欲望やまわりの要請に流されることなく、自分を律しながら自由自在に使う自信がない。自分の精神レベルを超えていると思う。自分の精神レベルを超えたものを使うと、物に使われるハメになる。持っているだけで連絡が常に入ってきたり、常に情報を追わなければならなくなったり、常に使わざるを得ない状況に陥り、自由を奪われる。月額利用料だって七、八千円になる。そのお金を稼ぐために、やりたくもない仕事に何時間も奪われる。スマホなんかに働かされてどうする。

いや、よく考えると、あんなにたくさん持って歩く必要がない。そのためになぜ高いお金を払わなければならないのか。電話なんだから、電話とメールができて、カメラまでついていて、写真まで送れたら、他者とコミュニケーションをとるツールとしては十分すぎるくらいだ。私の持っている携帯電話は世間ではガラケー(ガラパゴス携帯)と呼ばれている。絶滅が待ち望まれているかのようだ。多くの人は、その言葉になんの違和感も持たない。それでいいのだろうか。いわゆるガラケーだって、多くの技術者の血と汗の結晶なはずだ。自分がその立場だったらどう感じるだろうか。

テクノロジーからしばし離れて、一人で考えてみたら、身体を動かしてみたら、見えてくること、高まってくる感覚がある。たまには、装置を何も使わないで、身一つで行動してみる。歩く。風を感じる。空を見上げる。手を動かす。人間としての体力、知性、感性を取り戻すにはそれがいいと思っている。